孔子
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その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目としたに加え、実践が可能とされる徳目の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて治主義を主張した。『』『』『』『』『』『春秋』といったの書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集であるが整理された(完成は漢代)。

孔子の死後、孟子荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。

20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義科学を普及させる観点から、孔子および儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開[5]。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥孔子学院を参照)。
時代背景
周公旦と礼学

孔子の生まれた魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、周公旦を開祖とする諸侯国で、周公旦は周王室の有力者でを滅ぼした武王の弟とされる。周公旦は、武王の子である成王を補佐し、克殷直後の周を安定させたと伝えられている。周公旦は、征服地の山東半島の曲阜に封じられて諸侯のひとり魯公となるが、魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは関中鎬京華北平原への出口を扼する洛陽を拠点とする周本国で朝政に当たっていた。

周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされる。旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めた。論語の伝えるところによれば孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどであった。

魯では周公旦の伝統を受け継ぎ、周王朝の古い礼制がよく保存されていた[6]。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化があった。
魯国の状況

春秋時代に入ってからの魯国は、といった周辺の大国に翻弄される小国となっていた。国内では、魯公室の分家である三桓氏が政治の実権を握り、寡頭政治を行っていた。三桓氏とは、孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏のことをいう。魯の第15代君主桓公の子に生まれた3兄弟の慶父叔牙季友は第16代荘公重臣となり、慶父から孟孫氏(仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏に分かれ代々魯の実権を握ってきた。特に権力を極めたのが季孫氏で、代々司徒の役職に就き、叔孫氏が司馬、孟孫氏(仲孫氏)が司空を務めた。

孔子の生まれた当時は襄公紀元前572年-紀元前542年)の時代であった。紀元前562年には季孫氏の季孫宿(季武子)の発議によってそれまで上下二軍組織だった魯国軍を上中下の三軍組織に再編、のちに三桓氏は軍事を独占するようになる [7]
生涯
出自

紀元前552年(一説には前551年)に、国昌平郷辺境の?邑(陬邑、すうゆう)、現在の山東省曲阜(きょくふ)で?邑大夫の次男として生まれた。父は既に70歳を超えていた叔梁?(しゅくりょうこつ)または孔?(こうこつ)、母は身分の低い16歳の巫女であった顔徴在(がんちょうざい)とされるが、『論語』の中には詳細な記述がない。父は三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていた[8]。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わる[9]。また『史記』には、叔梁?が顔氏の娘との不正規な関係から孔子を生んだとも、尼丘という山に祷って孔子を授かったとも記されている[10]。このように出生に関しては諸説あるものの、いずれにしても決して貴い身分では無かったようである。「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」と史記は記す。貝塚茂樹は、孔子は私生児ではなかったが嫡子ではなく庶子であったとしたうえで、後代の儒学者が偉人が処女懐胎で生まれる神話に基づいて脚色しようとするのに対して、合理的な司馬遷の記述の方が不敬とみえても信頼できるとしている[11]。孔子はのちに「吾少(わか)くして賎しかりき、故に鄙事に多能なり」と語っている[12]

『史記』によれば、孔子の祖先はの人であるという。『孔子家語』本姓解ではさらに詳しく系図を記し、孔子を宋のの兄である弗父何の10代後の子孫であり、孔子の曽祖父の防叔のときに魯に移ってきたと言っている。

孔子は3歳の時に父の叔梁?を失い、母の顔徴在とともに曲阜の街へと移住したが、17歳の時に母も失い、孤児として育ちながらも勉強に励んで礼学を修めた。幼少期には、母の顔徴在の影響を受けて、葬式ごっこをして遊んでいたという。しかし、成長してから、どのようにして礼学を学んだのかは分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖の周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せているが、細かく確認することこそこれが礼であるとの説もある。また、老子に師事して教えを受けたという説もある。

弟子の子貢はのちに「夫子はいずくにか学ばざらん。しかも何の常の師かあらん。(先生はどこでも誰にでも学ばれた。誰か特定の師について学問されたのではない)」(子張篇)と答えたといわれ[13]、孔子は地方の小学に学び、地方の郷党に学んだ。特定の正規の有名な学校で学んだわけではないという意味で独学であった[14]

孔子の生活は、明るく楽しいものではなかった。姉もたくさんいて、足の不自由な兄もいる。父は、孔子が3歳の時に亡くなった。母は17歳の時に亡くなってから、それまでの生活は、母の仕事によって成り立っていたのだろう [15]

父母の年齢がかなり離れていたので、子どもが生まれるかどうか、特に母は心配だった。そこで、祈?師でもある母は「尼丘に?り、孔子を得たり」近くの尼丘山にいのって、孔子をさずかることができた。魯国の襄公22年9月28日とされている。ただし、生年には諸説があり、『春秋公羊伝』は「襄公21年10月1日庚子孔子生」とする。同穀梁伝は「21年庚子、孔子10月5日の後に生まる」とする。また『史記集解索隠正義礼記』は、周の正月は11月なので、『史記』の22年は実際は21年になる、という。その他、限りなく諸説が展開し、南宋王応麟は、もはや考えるすべもないと嘆息している。新しいところでは、張培瑜が「孔子生卒的中暦和公暦日期」において、従来の諸説を概観した結果、魯の襄公22年10月27日庚子、現在の中国の暦法で、前551年9月28日とするのが妥当だろう、と述べている。誕生にまつわる話で孔子が生まれる夜、天から二頭の蒼龍が母の部屋の上に降りてきて、母は夢の中に孔子を産んだ。また、2人の神女が空中から香露をフげて降りてきて、母に沐浴させた。天帝も、鈞天の楽を奏しながら部屋の上に降りてきた。空中に「天が聖なる子を産むので、地で音楽の枠を奏するのである」という声が聞こえた。五人の老人が庭に立った。これは、五つの星の精である。五つの星は、五行説にいう木、火、土、金、水の五行の精。それぞれ、木精、火精、土精、金精、水精をさす。さて孔子が生まれる前に、麒麟が村に現れて玉書を吐き出した。そこには「水精の子が、哀えている周王朝を継いで、素王ー王位に就かず、王者の徳を備えている人になるだろう」とあった。水精は五行の循環によって歴史が展開するという考えに基づく。周王朝は火の徳に当たるので、それを継ぐのは水の徳ということになる。孔子の母は、??を麒麟の角にかけてやった。麒麟は、孔子の家に二泊してから去っていった。原形は、東晋の王嘉著の『王子年拾遺記』巻3に見られる。王嘉は、隠遁生活を続けて穴居生活をし、俗世と交わらず、五穀を食べず門弟数百人を擁したという。よか未来を予言し、のち長安に出て終南山に住んだ。別に、これは南朝梁蕭紀の著で、名を王嘉に託したものという[16]
青年期

紀元前542年6月、魯の襄公が薨去すると、太子の魯公野が即位するが同年の9月、野は突然死したため、襄公と斉帰の間の子である稠が昭公(?-紀元前510年)として君主に即位した。


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