子爵
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叙爵内規では「一新前家ヲ興シタル旧堂上」を公家からの子爵位の対象者に定めていた[13]。ただし伯爵以上に該当する家はそちらに叙される。具体的には摂家公爵)と清華家侯爵)を除く堂上家について「大納言迄宣任の例多き」堂上家であれば伯爵位を与えられ、それに該当しない堂上家が子爵位を与えられた。「大納言迄宣任の例多き」の意味については柳原前光の『爵制備考』で解説されており「旧大臣家三家[注釈 2]」「四位より参議に任じ大納言迄直任の旧堂上二十二家[注釈 3]」「三位より参議に任ずといえども大納言迄直任の旧堂上三家[注釈 4]」「大納言までの直任の例は少ないが従一位に叙せられたことのある二家[注釈 5]」のことを指す[32]。直任とは中納言からそのまま大納言に任じられることをいい、公家社会ではいったん中納言を辞して大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた。この直任の例が一回でもあれば「宣任の例多き」に該当する[33]。そしてこれらに該当しない堂上家が子爵である。以下の家が該当せず堂上家から子爵になった家である[34]

阿野家羽林家旧家・1944年継承者欠く)、綾小路家(羽林家・旧家)、池尻家名家新家)、石山家(羽林家・新家)、五辻家(羽林家・旧家)、今城家(羽林家・新家)、入江家(羽林家・新家)、石井家半家・半家)、石野家(羽林家・新家)、植松家(羽林家・新家)、梅小路家(名家・新家)、梅園家(羽林家・新家)、梅溪家(羽林家・旧家)、裏辻家(羽林家・新家)、裏松家(名家・新家)、大宮家(羽林家・新家)、大原家(羽林家・新家・後に伯爵)、岡崎家(名家・新家)、小倉家(羽林家・旧家)、押小路家(羽林家・新家)、愛宕家(羽林家・新家)、風早家(羽林家・新家)、交野家(名家・新家)、勘解由小路家(名家・新家)、唐橋家(半家・旧家)、河鰭家(羽林家・旧家)、北小路家(藤原北家)(名家・新家)、北小路家(大江氏)(半家・新家)、清岡家(半家・新家)、櫛笥家(羽林家・旧家)、久世家(羽林家・新家)、倉橋家(半家・新家・1919年に女戸主)、桑原家(半家・新家・1919年返上)、五条家(半家・旧家)、桜井家(羽林家・新家)、澤家(半家・新家・後に伯爵)、慈光寺家(半家・旧家)、七条家(羽林家・新家)、芝山家(名家・新家)、持明院家(羽林家・旧家)、白川家(半家・旧家)、園池家(羽林家・新家)、高丘家(羽林家・新家)、高倉家(半家・旧家)、高辻家(半家・旧家)、高野家(羽林家・新家・1912年返上)、高松家(羽林家・新家)、竹内家(半家・旧家)、竹屋家(名家・旧家)、千種家(羽林家・新家)、土御門家(半家・旧家)、堤家(名家・新家)、富小路家(半家・旧家)、外山家(名家・新家)、豊岡家(名家・新家)、中園家(羽林家・新家)、長谷家(名家・新家)、難波家(羽林家・旧家)、西大路家(羽林家・旧家)、錦織家(半家・新家)、錦小路家(半家・旧家)、西洞院家(半家・旧家)、西四辻家(羽林家・新家)、野宮家(羽林家・新家)、萩原家(半家・新家)、八条家(羽林家・新家)、花園家(羽林家・新家)、東園家(羽林家・新家)、東坊城家(半家・旧家)、樋口家(半家・新家)、日野西家(名家・新家)、平松家(名家・新家)、藤井家(半家・新家)、藤谷家(羽林家・新家)、藤波家(半家・旧家)、伏原家(半家・新家)、舟橋家(半家・旧家)、穂波家(名家・新家・1905年返上)、堀河家(半家・新家・1944年継承者欠く)、町尻家(羽林家・新家)、水無瀬家(羽林家・旧家)、壬生家(羽林家・新家・後伯爵)、三室戸家(名家・新家)、武者小路家(羽林家・新家)、藪家(羽林家・旧家)、山井家(羽林家・新家)、山本家(羽林家・新家)、吉田家(半家・旧家)、冷泉家(羽林家・旧家)、六条家(羽林家・旧家)、六角家(羽林家・新家)

羽林家や旧家であることが伯爵の条件かのように説明する俗説もあるが誤りである[35]。叙爵内規は羽林家名家半家、あるいは旧家新家の区別で爵位の基準を定めていない。半家からは伯爵家が出ておらず、全て子爵家になっているが、これは半家がすべて非藤原氏であり、公家社会における家格が低く、極官もせいぜい各省の長官(卿)だったので、叙爵内規の定める条件を満たすことができなかったのが原因である。半家は伯爵になれないとか、藤原氏でないと伯爵以上にはなれないという定めがあったわけではない点には注意を要する[36]。また旧家の方が新家より伯爵輩出率は高いが、それは単に家の歴史が長いので大納言直任の機会が多いというだけのことであり、新家は伯爵になれないなどという定めがあったわけではない[36]
旧大名の子爵家

叙爵内規では「旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家」を旧大名からの子爵位の対象者と定めていた[13]。5万石未満の基準は表高内高といった米穀の生産量ではなく、税収を差す現米(現高)である点に注意を要する[37]。明治2年(1869年)2月15日に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。もちろんこの時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである[38]。この基準に基づき、以下の家が旧小藩知事として子爵家に列せられた[34][39](念のため表高も併記しておくが、表高は爵位には一切影響を及ぼさないので注意)。

青木家(摂津麻田藩現米4792石・表高1万0000石)、青山家(丹波篠山藩現米3万6320石・表高6万石)、青山家(美濃郡上藩現米1万5970石・表高4万8000石)、秋田家(陸奥三春藩現米1万2580石・表高5万石)、秋月家(日向高鍋藩現米1万6770石・表高2万7000石)、秋元家(上野館林藩現米3万7450石・表高6万石)、足利家(下野喜連川藩現米1930石・表高5000石)、阿部家(陸奥棚倉藩現米1万140石・表高6万石)、阿部家(上総佐貫藩現米4470石・表高1万6000石)、有馬家(下野吹上藩現米3530石・表高1万石、1943年返上)、有馬家(越前丸岡藩現米1万7360石・表高5万石)、安藤家(陸奥磐城平藩現米6760石・表高3万石)、安部家(武蔵半原藩現米5940石・表高2万250石、1946年継嗣襲爵せず)、井伊家(越後与板藩現米7190石・表高2万石)、池田家(備中生坂藩現米5680石・表高1万5000石)、池田家(備中鴨方藩現米9220石・表高2万5000石)、池田家(因幡鹿奴藩現米1万3250石・表高3万石)、池田家(因幡若桜藩現米8830石・表高1万5000石)、石川家(伊勢亀山藩現米2万4450石・表高6万石。


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