8世紀に入ると中国でも子午線の計測が行われた。玄宗より新暦編纂の勅命を受けた僧一行は、鉄勒から交州にかけての測量を実施し、緯度1度の子午線弧長を351里80歩(約123.7km)と算出した。この算定と実際との誤差は11パーセントである。9世紀前期には、アッバース朝第7代カリフであるアル=マアムーンの命により、アル=フワーリズミーがシンジャール平原において実施した、角度測量によって多少良い結果が算出された。ヨーロッパでは、それまで子午線弧長測量が行われた記録が残っておらず、14世紀にジョン・マンデヴィルが編纂したとされる"The Travels of Sir John Mandeville
" (大場正史訳「東方旅行記」, 東洋文庫第19巻, 平凡社, 1964, ISBN 9784582800197)において地球が球形であることが言及されている程度であったが、16世紀になって、もともと医師、生理学者であり、天文学、数学にも関心を持ったジャン・フェルネル(フランス語版、英語版)が、経度がほぼ等しいパリ-アミアン間の緯度差を1度とみなした上で、荷車の車軸の回転数からその子午線弧長を決定したことを、著書" ⇒Ioannis Fernelii Ambianatis Cosmotheoria, libros duos complexa" (1528)に書き記している。1615年には三角測量によるものとしては最初の子午線弧長測量がヴィレブロルト・スネルにより行われたが、測量結果には数パーセントの誤差があった。その約半世紀後の1669年にジャン・ピカールが本格的な三角測量を行い、緯度差1度に相当する子午線弧長を0.3%程度の精度で測定した。しかしながら、この頃辺りまでは地球の形状はあくまでも真球であるという前提の下に議論が行われていた。
フランス科学アカデミー遠征隊のペルーとラップランドへの派遣詳細は「フランス科学アカデミーによる測地遠征」を参照
ピカールによる測量以降、測量精度が向上するにつれて、地球の正確な形状についての問題が顕在化し、地球は正確には真球より回転楕円体と考えるべきとの意見が多くなったが、長球なのか扁球なのかについて議論が分かれていた。ジャック・カッシーニは、1713年に自らが行ったダンケルク-ペルピニャン間の測量結果を『地球の大きさと形状』(De la grandeur et de la figure de la terre、1720年)に取りまとめ、この結果とルネ・デカルトの渦動説から、地球が南北に長い長球であることを提唱した。一方では、振り子時計をパリから赤道付近へ持ってゆくと遅くなるというジャン・リシェによる報告からの推測により、アイザック・ニュートンが発表した万有引力の理論から赤道方向に長い扁球であると主張する学者も多数いた。
これを受け、18世紀半ば(1735年?1740年)には、フランス科学アカデミーが、地球楕円体の形状の論争に決着をつけるために赤道近傍と北極近傍の子午線弧長を比較した。この測量事業は、ピエール・ブーゲ、ルイ・ゴダン、シャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌ、ピエール・ルイ・モーペルテュイ及びアントニオ・デ・ウジョーアらによってペルー(現在のエクアドル)[1]とラップランド(トルネ谷)で実行された。
測量結果は2地域の同緯度差での子午線弧長に対する有意差を示し、極付近の弧長が赤道付近の弧長よりも大きいというものであった。これは赤道付近のほうが極付近よりも曲率が大きいことを示唆しており、1687年にニュートンが彼の著書『自然哲学の数学的諸原理』の第3巻において提唱したとおり、地球の数学的形状は扁球として解釈できることが確認された。カッシーニが得た測量結果が不正確であったことは、彼の弟子ともいうべきニコラ・ルイ・ド・ラカーユが1739年から2年を費やして再測量を行うことにより確認された。
18世紀後半にかけて、フランス科学アカデミーによってダンケルク-バルセロナ間の子午線弧長の測量が行われ、メートルの定義のために使われた。 日本では伊能忠敬が第二次測量(1801年)の結果から緯度1度に相当する子午線弧長を28.2里と導き出している。 地球楕円体に基づく子午線弧長の計算は地図投影法、特に横メルカトル図法(ガウス・クリューゲル図法)において重要な役割を果たす。
伊能忠敬による子午線弧の測量
子午線弧長の計算