姫路藩
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1613年、輝政が没すると、姫路藩を継いだ嫡男利隆は、次男忠継の夭折後に岡山藩を継いでいた三男忠雄に播磨国内西部の13万石を譲り、39万石となった。さらに1617年、利隆が若くして没すると、嫡男光政が幼かったため、幼君には要衝姫路を任せられないという理由で鳥取藩32万石に転封された。
本多家時代

その後、姫路には徳川四天王の一人本多忠勝の子忠政が15万石で入封した。さらに、忠政の甥政勝が5万石で龍野藩に入り、忠政の嫡男で将軍徳川秀忠の娘千姫豊臣秀頼未亡人)と結婚した忠刻が、父とは別に播磨国内10万石を領して、要衝播磨は譜代の名門本多家の総計30万石によって固められた。一方、その他の旧池田家の播磨の所領は、松平信康の娘である峯高院妙高院の姉妹が嫁いだ明石藩小笠原家10万石、および徳川家康の愛娘・良正院化粧料遺領を分配した赤穂藩3.5万石、平福藩2.5万石、山崎藩3.8万石とその池田家一族の鵤藩1万石、林田藩1万石の中小藩に分割されている。

その後、本多忠刻は父に先立って病没したので、忠刻の弟で播磨国龍野藩主であった政朝が姫路15万石を継ぎ、残りの10万石は忠政の三男・忠義の4万石と忠政の外孫・小笠原長次の6万石に分割された。

1639年政朝の跡を継いだ政勝大和郡山15万石に移された。
奥平松平家・榊原家・本多家(再封)・結城松平家時代

代わって郡山から家康の外孫松平忠明が入封するが1644年に没し、嫡子が幼いことから1648年奥平松平家出羽山形に転封となった。以後、15万石をもって譜代・親藩の名門が姫路を領し、播磨が要衝である故をもって幼君が出れば転出することが繰り返された。奥平松平家と交代で山形より結城松平家が入ったが、(松平直矩が幼少のため)越後村上に転封、陸奥白河より榊原家が入って(榊原政倫が幼少のため)越後村上に転封、交代で越後村上より再び結城松平家(成人した松平直矩)が入って(直矩が咎を受けたため懲罰で)豊後日田に転封、陸奥福島より再び本多家が入って(本多忠孝が幼少のため)越後村上に転封し、交代に越後村上から再び榊原家が入った。

書写山圓教寺にある榊原家廟所姫路藩主の1人、松平明矩の墓所書写山圓教寺にある松平家(松平直基)廟所景福寺山景福寺にある酒井家歴代藩主夫人の墓

1704年に再入封した榊原家は、本多忠勝と並ぶ徳川四天王榊原康政を祖とする譜代の名門で、3代30年以上にわたって姫路藩15万石を領したが、第8代当主政岑のとき、8代将軍・徳川吉宗の倹約令を無視して派手を好み、吉原遊廓花魁を大名自ら身請けするなどの遊興が幕府の怒りを買い、政岑は隠居の上、榊原家は豊かな西国の姫路から内高が少なく実収の乏しい北国の越後高田15万石に懲罰的転封された。しかしこれも、隠居に伴い相続した後継の榊原政純が幼少のため、という理由もある。

1741年に榊原家に代わって再び入封した結城松平家も、その8年後には松平朝矩の幼少を理由に上野前橋へ転封された。
酒井家時代

結城松平家の転封後、代わって老中首座酒井忠恭が前橋から入封する。姫路藩の酒井家は徳川家康の重臣酒井正親重忠を祖とし、大老酒井忠世酒井忠清を出した酒井雅楽頭家の宗家である。老中を務めていた忠恭の前橋領は居城が侵食されるほどの大規模な水害が多発する難所であり、加えて酒井家の格式を維持する費用、幕閣での勤めにかかる費用、放漫な財政運用などにより酒井家は財政が破綻していたため、忠恭は「同石高ながら実入りがいい」と聞いていた姫路への転封をかねてより目論んでいた。実際は、姫路領では前年に大旱魃が起き、そこに重税と転封の噂が重なり、寛延の百姓一揆と呼ばれる大規模な百姓一揆が起こっていたが、酒井家は気がついていなかった。それでも転封は実現したが、その年の夏に姫路領内を2度の台風が襲い、水害が発生し大変な損害を出し、転封費用も相まって財政はさらに悪化することとなった。ともあれ酒井家以降、姫路藩は頻繁な転封がなくなり、ようやく藩主家が安定した。歴代の姫路藩主は前橋時代同様にしばしば老中、大老を務め、幕政に重きを成した。

幕末には藩主酒井忠績1865年に大老となり、河合宗元ら勤王派の制圧に力を振るったが、1867年に蟄居した。弟で次の藩主になった酒井忠惇は老中となるが、鳥羽・伏見の戦い徳川将軍家徳川慶喜に随行して大坂退去にも同道したので、戊辰戦争では姫路藩は朝敵の名を受け、官軍の討伐対象とされた。在国の家臣は1月17日に無血開城して姫路城は岡山藩に占領されるが、3月7日になって藩主忠惇の官位剥奪と入京禁止が命じられ、会津藩などと同様に慶喜の共犯者とみなされた。慶喜が江戸城を無血開城して恭順の意を表明すると、江戸藩邸にいた忠績・忠惇もそれに従って新政府軍に降伏した。ところが5月5日になって、忠績は江戸の大総督府に対して、酒井家は徳川家の臣であり天皇家の臣として主家と相並ぶことを拒絶して所領没収を望む、との嘆願書を提出した。姫路藩は、5月20日に忠惇が蟄居して分家上野伊勢崎藩酒井家から迎えた酒井忠邦に藩主の地位を譲り、軍資金として15万両を新政府に献上することで藩存続を許されるものの、佐幕派として立場が明確となった忠績への対応が迫られることになった。しかし、忠邦や重臣たちの説得に忠績は応じず、蟄居中の忠惇も忠績に同調する動きを示した。7月23日、新政府は家老の高須隼人・重臣河合屏山らに対して、忠績・忠惇の言動の背景には彼らの側近である佐幕派の影響があるとして、彼らの処断を迫った。


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