姫路城
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別名は白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)。
概要池田輝政

姫路城は播磨国飾磨郡[注釈 1]の、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された[14]。この他、「国宝五城」[注釈 2]や「三名城」「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。

姫路城の始まりは、1346年南朝正平元年、北朝貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている[15]。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏[注釈 3]の家臣、黒田重隆職隆父子による築城を最初とする説もある[16]

戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏羽柴氏城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された[15]

江戸時代には姫路藩藩庁となり、更に西国外様大名監視のために西国探題が設置された[15]。城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので、大名が頻繁に交替して城主に成っている。池田氏に始まり譜代大名本多氏榊原氏酒井氏や、親藩松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還時の酒井忠邦まで約270年間、城主は6氏31人(赤松氏から数えると約530年間、13氏48人[17])が務めた。

明治時代初期に陸軍省の管理下に入ったが、まもなく民間に払い下げとなり、競売で23円50で落札されたが、その後に権利が放棄されたらしく、国有に戻っている[18]。その後は陸軍兵営地となり歩兵第10連隊の駐屯地として使用され、兵舎増築のため本城、向屋敷、東屋敷等が撤去された[19]。年を経るごとに腐朽が進んでいたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などを名古屋城とともに保存する処置が取られ、その後また腐朽が進むと市民の間から両院に修復工事の陳情が行われ、議会の決議により国費9万円をもっての「明治の大修理」が行われた[2][20]

この大修理を機に市民の間から陸軍省から姫路市への払い下げと城を公開することを求める声が強まり、姫路市会の決議を経て1914年大正3年)に、軍用地を除き姫路市への無償払い下げが決定し、公開されることなった[21]

史蹟名勝天然紀念物保存法に基づき1927年昭和2年)には姫路城は史跡に指定され、1931年(昭和6年)に姫路城天守閣が国宝指定を受けた[22]太平洋戦争中には姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。

昭和の大修理」を経て、姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代や江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品のロケーション撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。姫路市は2021年12月、ふるさと納税で3000万円以上を寄付した人への返礼として49人目の「城主」として迎えるプランを発表し、2022年3月19日に専用ヘリコプターでの入城して「永久入城権」を受け取るなどするイベントが開催された[17]。また、明治時代に焼失、解体された、三の丸御殿、櫓、門、土塀の木造復元計画があるが予算の関係で進んでいない。
名称の由来と別名

姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる[23]。ここでは大汝命(大国主命)の船を火明命が嵐で転覆させた際に積み荷の中から蚕子(ひめこ)が流れ着いたのが山の名の由来とされる。のちに「姫道」を経て「姫路」となった[24]。『播磨国風土記』が再発見されるまでは、他戸親王の娘・富姫に由来するなどと言われていた[25]

姫山はが多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った[26]。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある[27]万葉集巻9・1776に『絶等寸(たゆらぎ)の山の峰の上の桜花咲かむ春へは君し偲はむ(播磨娘子より石川大夫への歌)』とあるが、井上通泰[28]金子元臣[29]はこのたゆらぎの山を姫山のこととする。『姫路城史』の著者・橋本政次[注釈 4][30][26]や『姫路市史(1919年)』[31]はさらに「絶等寸」をサクラギ(桜木)と訓ずるべきと論じる。一方で吉田金彦は「姫路」は「日村道(ひむれじ)」すなわち「日数のかかる村道、日数を重ね隔てた遠い村への道」が元に[32]、「絶等寸山」は西の丸のある鷺山でタユラギは「タユヒ(手結、袖口を結ぶこと)」と「(スメラギの)ラキ(?の男)」を合わせた「古代の共同労働集団の統括者」という説を提示している[33]

橋本政次『姫路城の話』では、別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来として、推論も含め、以下の4説が挙げられている[34]

姫路城が「鷺山」に置かれているところから。

漆喰で塗られた城壁の美しさから。

ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。

黒い壁から「烏城(うじょう)」「金烏城(きんうじょう)」とも呼ばれる岡山城との対比から。

白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがあり[注釈 5]村田英雄の歌曲に『白鷺(しらさぎ)の城』というものもある。


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