姉川の戦い
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]
注釈^ 越前の城にみられる畝状竪堀の痕跡があり朝倉氏の関与が認められる。
^ 訳者によっては陣払いして引いたのは信長側だとしているものもある。(榊山 潤「原本現代訳 信長公記(上)」など)
^ この時、「浅井側先鋒磯野員昌率いる浅井家精鋭部隊が織田方先鋒坂井政尚、続いて池田恒興、木下秀吉(豊臣秀吉)、柴田勝家の陣を次々に突破し13段の備のうち実に11段までを打ち破る猛攻を見せた」というが、このエピソードは元禄時代の浅井三代記が初出で、信長公記・三河物語・当代記などには、記述が見えないため、疑問視する声もある。
^ 『年代記抄節』にも「(浅井・朝倉軍が)横山へ後巻両手に取出、押寄、即時に両手一同に切崩、信長得大利候」と、対陣する間もなく即刻合戦に突入して切り崩した様子が伝えられている。
^ 信長はすでに若狭国武田信方宛6月6日付の書状で、6月28日に合戦になるので高島まで出陣するように要請している。つまり合戦期日を予め決めていたということで、それは浅井・朝倉方にも通達していたことになる。『新・信長公記』高澤2011
出典^ 織田10000・徳川3000(三河物語)、織田不明・徳川5000?6000(服部半三武功記)、織田不明・徳川5000(甫庵信長記)、織田35000・徳川5000(甲陽軍鑑)
^ 朝倉8000・浅井5000(信長公記)、朝倉15000・浅井5000?6000(津田文書)、朝倉15000・浅井8000(益田家文書)、30000(毛利家文書)、朝倉15000?16000・浅井6000?7000(年代記抄節)、朝倉10000余+浅井8000余(南部文書)、朝倉不明・浅井10000(松平記)、30000(三河物語)、8000?10000(服部半三武功記)、朝倉20000・浅井不明(甫庵信長記)、朝倉15000・浅井3000(甲陽軍鑑)
^ 1100(信長公記)、8000(益田家文書)、朝倉5000?9600+浅井7000?8000(言継卿記)、数千(年代記抄節)、6000(日本耶蘇会年報)
^ 『姉川の戦い』 - コトバンク、『姉川の戦』 - コトバンク、「姉川の戦い」 - ジャパンナレッジ
^ 『朝倉氏五代の発給 文書福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館古文書調査資料1』
^ “大日本史料総合データベース - 甫庵信長記”. 11/28/2018閲覧。
^ 高澤等著『新・信長公記』 ブイツーソリューション、2011年
関連作品
ボードゲーム
「織田信長」(バンダイifシリーズ)
「信長風雲録」(ツクダホビー)
「The Anegawa」(『SAMURAI』収録)GMT Games、1993年、英語。
「燃えよ!姉川の戦い」(『ゲームジャーナル 34号』収録)シミュレーションジャーナル( ⇒http://www.gamejournal.net/ )、2010年、日本語。
小説
鈴木輝一郎 『姉川の四人 信長の逆切れ』(2013年8月 毎日新聞社)
関連項目
日本史の出来事一覧
日本の合戦一覧
野田城・福島城の戦い
畿内・近国の戦国時代
外部リンク
⇒姉川古戦場 滋賀県観光情報
⇒姉川古戦場 長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト
姉川の合戦再見実行委員会
姉川 「奇襲、戦い小規模」説 朝日新聞
徳川家康の戦い
寺部城
桶狭間
善明堤
藤波畷
三河一向一揆
姉川
一言坂
二俣城
三方ヶ原
野田城
長篠
高天神城
甲州征伐
伊賀越え
甲州発向
小牧・長久手
上田
小田原
関ヶ原
大坂
.mw-parser-output .asbox{position:relative;overflow:hidden}.mw-parser-output .asbox table{background:transparent}.mw-parser-output .asbox p{margin:0}.mw-parser-output .asbox p+p{margin-top:0.25em}.mw-parser-output .asbox{font-size:90%}.mw-parser-output .asbox-note{font-size:90%}.mw-parser-output .asbox .navbar{position:absolute;top:-0.90em;right:1em;display:none}
この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
表示
編集
記事の検索おまかせリスト▼オプションを表示暇つぶしWikipedia
Size:34 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef