ただし、姉小路家が最初に飛騨国司を務めたタイミングは不明であり、建武政権下説、応安4年(1371年)説などがある。家綱は、貞和4年(1348年)に光明天皇が行幸した際に「近衛次将基氏朝臣」として名前が見える。そして、貞治2年(1363年)には、左中将であった家綱と左少将であった弟の姉小路頼時(後の古川家の祖)が朝廷に出仕しないことを理由に暫定的に解任されている。以上のことから、家綱が飛騨国司となったのは、貞治2年(1363年)から永和4年(1378年)の間となる。ただし、北朝と南朝のどちらによって任官されたのかは不明。また、応安4年(1371年)には北朝方の斯波義高と「飛騨国司」が戦闘しているが、これが家綱のことであるかは不明[3]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 家綱以前に藤原氏小一条流の人物が参議に任じられたのは承保2年(1075年)藤原師成。
出典^ 大薮海編『室町幕府と地域権力』(2013年、吉川弘文館)[要ページ番号]
^ 大薮海編『室町幕府と地域権力』(2013年、吉川弘文館)[要ページ番号]
^ 大薮海編『室町幕府と地域権力』(2013年、吉川弘文館)[要ページ番号]