問う。如を体とし、しこうして来るが故に如来と名づくとは、是れ応身にして来の義あるべし。真如法身には、いかんが来あるや。答う。本は隠れしが今顕れるが如く、また来と称するを得。
(二釈名門者。体如而来。故名如来。又如諸仏。故名如来。問。体如而来。故名如来。此是応身可有来義。真如法身云何有来。答。如本隠今顕。亦得称来。)—吉蔵『勝鬘宝窟』つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。—親鸞[7]
如来の例詳細は「仏の一覧#如来部」を参照
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「如 (tath?、タター) 」の後に来る語を「去れる (gata、ガタ) 」とするか「来れる (?gata、アーガタ) 」とするかで如去、如来と漢訳し分けられる[要出典]。
出典^ 『岩波 仏教辞典』第二版、岩波書店、2002年。
^ a b “如来(にょらい)とは - コトバンク
表
話
編
歴
仏教
基本教義
四諦
八正道
中道
三相
無常
苦
無我
解脱と涅槃
人物
釈迦
十大弟子(舎利弗/目連/大迦葉/須菩提/富楼那/迦旃延/阿那律/優波離/羅?羅/阿難)