好太王碑
[Wikipedia|▼Menu]
「好太王碑」の名の由来は、碑文のなかに4箇所にわたって「国岡上広開土境平安好太王」と、その名がみえることによる[5]。「広開土王碑」の名は朝鮮史料『三国史記』にこの王を「広開土王」の名で伝え、碑文にもその名がみえることに由来する。「広開土王」は高句麗の境域を拡大したであり、「好太王」は優れた王のなかの王の意で、「太王」はおそらく「大王」よりも格上に位置づけられた尊称であり、「好」は「太王」をさらに高めたもので、「好太王」は「大太王」の意とみられる[5]
日本と拓本

1884年(明治17年)1月、情報将校として実地調査をしていた陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰った資料に、好太王碑の拓本が含まれていた(「酒匂本」)。その後、参謀本部で解読に当たったのは文官である青江秀と横井忠直であり、倭の五王以前の古代日本を知る重要史料とわかったため、漢文学者の川田甕江丸山作楽井上頼圀らの考証を経て、1888年(明治21年)末に酒匂の名により拓本は宮内省へ献上された。
碑文碑文の墨水廓填本 1882年頃作成、東京国立博物館蔵「倭・高句麗戦争」も参照

東アジアの情勢は3世紀から4世紀に大きくかわった。中国大陸では南北朝が対立し、朝鮮半島でも高句麗新羅百済の三国が並びたった。この間、中国の史書には倭の記述がないが、おそらく4世紀前半までにヤマト政権の国土統一が行われ、後半には朝鮮半島南部へ進出したのだろうと考えられる[9]。この事実を示すのが『好太王碑』の倭兵の朝鮮進出記事であり、4世紀末から朝鮮半島へ倭兵が進出し、高句麗軍と交戦したのである[9]。百殘,新羅舊是屬民,由來朝貢,而倭以辛卯年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民。以六年丙申,王躬率水軍討利殘國軍□□。…百殘王困,逼獻出男女生白一千人,細布千匝,歸王自誓,從今以後,永為奴客。…九年己亥,百殘違誓與倭和通。王巡下平穰,而新羅遣使白王云,倭人滿其國境,潰破城池,以奴客為民,歸王請命。…十年庚子,教遣?騎五萬,往救新羅,從男居城至新羅城,倭滿其中。官兵方至,倭賊退。

百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。ところが、倭が辛卯の年(三九一)以来、海をこえて襲来し、百済や新羅などを破り、臣民とした。そこで好太王は、三九六年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。…百済王は困って好太王に降伏して自ら誓った。「これからのちは永くあなたの奴隷になりましょう」と。…三九九年、百済はさきの誓約をやぶって倭と通じたので、好太王は平壌へ行った。そのとき新羅は使いを送ってきて好太王に告げた。「倭人が国境地帯に満ちあふれ、城を攻めおとし、新羅を倭の民にしてしまいました。私たちは王に従ってその指示をあおぎたいのです」と。…四〇〇年、好太王は歩兵と騎兵あわせて五万の兵を派遣して新羅を救わせた。その軍が男居城から新羅城に行ってみると、倭の兵がその中に満ちていたが、高句麗軍が到着すると、退却した[9]。 ? 好太王碑

碑文は三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。三段目はあまり注目されないが、吉田孝は三段目こそが石碑建立の最大の目的であったと主張している[8]

そのうち、に関する記述としては、いわゆる辛卯年条(後述)の他に、以下がある。

399年百済は先年の誓いを破ってと和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。

400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた[10]

碑文では好太王の即位を辛卯年(391年)とするなど、干支年が後世の文献資料(『三国史記』『三国遺事』では壬辰年(392年)とする)の紀年との間に1年のずれがある。また、『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。奈勿王子未斯欣を質となす」と新羅が倭へ人質を送っていた記録等があり、他の史料と碑文の内容がほぼ一致しているところが見られる。

この碑文からは、好太王の時代に永楽という元号が用いられたことが確認された。

碑文では、高句麗と隣接する国・民族はほぼ一度しか出てこず、遠く離れた倭が何度も出てくることから、倭国と高句麗の「17年戦争」と称する研究者も存在している[11]。その一方で、韓国などには高句麗が百済征伐のために倭を「トリックスター」として用いただけであると主張する研究者も存在している。一方、李成市は、倭は好太王の勲績を飾るトリックスターであるとの説も碑文の文脈と構文の巧みさを評価する余りに唱えられたひとつの「倭の過小評価」説である側面があることを指摘している[12]

倭の古代朝鮮半島における戦闘等の活動は、日本の史書『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』、朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』、中国側の史書『宋書』においても記録されている。また、2011年に発見された職貢図新羅題記にも「或屬倭(或る時は倭に属していた)」という記述があり、議論を呼ぶだろうとした[13]
辛卯年条

碑文のうち、欠損により判読できない記述のある二段目の部分(「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民」)の解釈がしばしば議論の対象となっている。

中国では歴史学者耿鐵華などの見解で、[海]の偏旁がはみ出し過ぎて他の字体とつり合いが取れていない事から、実際は[毎]ではないかとする意見もある。
大日本帝国陸軍による碑文改竄説とその破綻.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2016年4月)
碑文の一部

辛卯年条に関しては、酒匂本を研究対象にした日本在住の韓国・朝鮮人考古学、歴史学者の李進熙が、1970年代に大日本帝国陸軍による改竄・捏造説を唱えた[14]。李進熙の説は、5世紀の朝鮮半島に(日本)が権益を有していたように捏造するために、酒匂景信が拓本を採取する際に碑面に石灰を塗布して倭・任那関係の文章の改竄をおこなったとするものである。その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は百殘新羅舊是屬民由来朝貢而後以耒卯年不貢因破百殘倭寇新羅以為臣民

百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。 ? 好太王碑

と記されており、「破百殘」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済・新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗が百済・新羅を再び支配下に置いた、とするものであった。

しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済・新羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、『三国史記』、日本の『日本書紀』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽6年以降の好太王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構成から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された(「好太王碑#好太王碑文第二段の編年記事内容比較表」)[15][16]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:60 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef