奴隷
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典型として、古代ギリシア古代ローマ、古代オリエントの社会があげられる[10]。古代ローマでは奴隷労働に頼った大土地経営ラティフンディウムが存在した[11]

古代ギリシアポリス間紛争では敗れた側の住民で成年男性は殺害され、女性や子供は奴隷にされた。ギリシャやローマの社会は奴隷制を基盤にしたものであったが、ギリシャ世界のポリスはスパルタを除けば奴隷の収奪を主要な目的とした社会組織ではなかった[12]。奴隷交易はデロス島が著名であり、ストラボンの『地理誌』では1日に1万人以上を扱うことができたと記されている[注 2]

家庭内労働、鉱山ガレー船員、軍事物資の輸送、神へ捧げる生贄などさまざまな場面において使用された[13]。スパルタは大量のヘイロタイを農奴として使役した。共和政ローマでは征服地住民の多くが使役された[14] が、奴隷によるプランテーションが中小自営農家の没落を招いた。大規模な奴隷反乱はスパルタ、ローマでしばしば見られた(メッセニア戦争奴隷戦争)。

古代中国では神への生贄に供するために用いられた。日本でも弥生時代生口と呼ばれる奴隷的身分がすでに存在したとされる。また、日本に限らないが、中華王朝の周辺部族が皇帝に朝貢するときには、生口を貢物として差し出すことも珍しくはなかった。

古代のある時期、社会の主な労働力となっている体制を奴隷制と呼び、かつて唯物史観発展段階論において、原始共産制以降から発展し封建制へと繋がる段階とされ、この解釈では、農業・荷役・家事などの重労働に従事することが多かったとされた。
近世

農業革命が達成された中国に於いては北宋(960年 - 1127年)以降、土地の囲い込みによる農奴の小作農化(賃労働化)が進んだ。黒人奴隷を一本鞭折檻する白人主人の図

西欧諸国では17世紀のペスト禍によって奴隷の価格や農奴の価値が上昇するにつれ、国民については厳格な階級制度が緩和され、農奴から小作人への身分転換が進んだ。しかし、国外については、商品購買層ではない人々(他人種)に対し奴隷貿易が続けられた。

15世紀以後、アメリカ大陸とカリブ海地域でアフリカ人の奴隷が大量に使用された。これは後に、人道上の大問題となった[15]

新大陸(南北アメリカ・オーストラリア)においては、移民の賃金労働者がより安価な労働力となり、労働力不足も発生していたため、奴隷解放後には元奴隷たちは安価な賃金労働者に再編された。
第二次世界大戦後

日本列島では米軍に由る民主主義化革命の一環として自作農化が執行された(農地改革)。

1949年に発効した国際連合人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約や1957年に発効した奴隷制度廃止補足条約などそれに準じる各国の法規によって奴隷制度やトラフィッキングは現在は禁止されている。しかし、工業化の進んでいない発展途上国では、商品経済に飲み込まれながらもその対価が払えない貧困層が絶えず生まれ続け、それを供給源とする事実上の奴隷売買が公然と行われている地域がある。また、先進国・発展途上国の別によらず、暴力等によって拘束して売買し、性産業に従事させる犯罪が後を絶たず、非合法の奴隷とみなされる。世界には今でも2700万人が存在すると言われている[16][17][18][19][20]

2014年、過激派組織ISILコーランの解釈に基づき奴隷制度の復活、運用を国際社会に公表している[21]

2015年イギリスで奴隷状態が約1万人居るとされ現代奴隷法を制定した。

2019年、イギリスでポーランド人8人に現代奴隷法などの違反で禁固刑が言い渡された。被害者は約400人で欧州で過去最大規模の摘発となった[22]。「性的奴隷」、「人身売買」、および「債務奴隷」も参照
欧米
古代古代エジプトのファラオの奴隷(ジョン・コリア画)ギュスターヴ・ブーランジェの描いた奴隷市場
ギリシア詳細は「古代ギリシアの奴隷制」を参照

古代ギリシャ世界では、戦いや祭祀の際に捧げる犠牲、農作業、雑用役などの労働に非常に盛んに使用され、多くはないが家内工業における職人もいた。ポリス市民の得た閑暇は公的生活への参加に向けられ[23]、労働は恥辱であることが公然と言明された[24]
ローマ「古代ローマの奴隷制」も参照


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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