奴隷制
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

こうした解放奴隷たちはヨーロッパ式の高い教育を受けたものが多く、現地の支配階層を形成するようになった[53][54]
歴史
近代まで「古代ギリシアの奴隷制」、「古代ローマの奴隷制」、「イスラームと奴隷制」、「中国の奴隷制」、および「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」も参照

古くから一般に家長権のもとに家族の構成部分として家内労働に使役されたが(家父長制奴隷)、古代ギリシア古代ローマカルタゴや近世のアメリカ大陸などでは、プランテーション、鉱山業などの生産労働に私的、公的に大規模に使役された(労働奴隷)。古代ギリシアでは当初は債務奴隷が主に使役されていたが、やがて奴隷貿易などによる供給が主流となり、主に工業用途に使用された[55]。古代ローマでは主に戦争捕虜として大量の奴隷が流入し、鉱山やラティフンディウムと呼ばれる大農園、ワインオリーブ油などの生産など、広範な分野において使役された[56]

歴史上、とくに大規模な奴隷制として、15世紀から19世紀半ばまで大西洋地域に成立した近代奴隷制が挙げられる。このシステムは15世紀ポルトガルマデイラ諸島で、スペインカナリア諸島で推し進めたサトウキビ農園に直接の起源を持つ[57]。これらの島々に作られたプランテーションにおいては奴隷が労働力として多数使用され、供給はギニア湾岸の黒人諸地域からなされていた。クリストファー・コロンブスの新大陸発見と同時に現地住民の奴隷化も進められたものの、疫病や圧政による急激な先住民人口の減少によって半世紀もしないうちに歯止めがかかり、代わってアフリカ大陸からの奴隷供給が主流となった[58]。新大陸では北アメリカからカリブ海諸島、ブラジルに至るまで、イギリス、フランス、スペイン、オランダ、ポルトガルによって多数のプランテーションが建設されたが、ここでの労働力はほとんどがアフリカから奴隷船によって供給された黒人奴隷によってまかなわれた[59]。この奴隷流入によって多数の黒人がこの地域に移住することになり、とくに先住民人口がほぼ消滅していたカリブ海諸島においては多くの地域で黒人が多数派となった[60]
奴隷廃止

18世紀後半に入ると、ヨーロッパやアメリカでは啓蒙思想の広がりのなかで奴隷制への批判の動きが出てきた。ただし奴隷制度と奴隷貿易は社会に大きな部分を占めており、廃止には社会構造の大きな転換を伴うことから、啓蒙思想家の多くは奴隷制に批判的だったものの廃止を求めるものはほとんどいなかった[61]。奴隷制廃止の動きは18世紀半ば以降イギリスで始まった。1772年のサマーセット事件(英語版)では逃亡奴隷であるジェームズ・サマーセットの自由を保障する判決が下され、奴隷制廃止運動の大きな転換点となったが、この判決が奴隷制の廃止に直接貢献したわけではなかった[62]。ただしこれによって廃止運動は勢いづいた。1789年には解放奴隷のオラウダ・イクイアーノ(英語版)によって奴隷体験記であるアフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語が出版されている[63]

奴隷制度廃止運動は、メソジスト派クエーカー教徒といったプロテスタントの小宗派からはじまり、アメリカ北部のいくつかの植民地では18世紀末には奴隷制の廃止される地域が出現し始めた[64]。ついでフランス革命によってフランスでも1794年に奴隷制が廃止されたものの、ナポレオンは1803年に奴隷制を復活させ[65]、完全な廃止は二月革命後の1848年を待たねばならなかった[66]。イギリスでは人道主義者や福音主義者、そして砂糖の関税引き下げと自由貿易を求める産業資本家によって支持された奴隷貿易廃止運動が活発化し[67]、1807年にイギリス国会で奴隷貿易禁止法が成立した[68]ことで、奴隷貿易は終結へと動き始めた。最大の海運国であるイギリスの奴隷貿易廃止は他国の奴隷貿易にも甚大な影響を与え、さらにイギリスが他国にも奴隷貿易の廃止を迫ったことで、19世紀前半には奴隷貿易は衰退の一途をたどった[69]。フランスも1848年に奴隷制および奴隷貿易の禁止に踏み切り、ポルトガルやスペインなど残る諸国も1860年頃には奴隷貿易を停止した[70]。これにより外国からの奴隷の供給が停止し、奴隷制諸国は国内での奴隷調達を余儀なくされるようになった。イギリスの奴隷貿易禁止は輸入国側だけでなく輸出するアフリカ諸国にも強制され、1830年代から40年代にかけて沿岸部諸国とイギリスの間に奴隷貿易禁止協定が相次いで締結されて[71]ラゴスのように抵抗する国には軍事侵攻も行われた[72]

この動きはやがて加速し、1833年にはイギリスが奴隷制を廃止する[73]など、奴隷制そのものの廃止へと進んでいった。アメリカ合衆国南部においては奴隷制プランテーション農園主の政治的発言力が大きく、奴隷制がむしろ強化される傾向にあったのに対し、北部諸州では奴隷制がすでに廃止されており、やがて合衆国が西部へと版図を広げ加盟州が拡大していくのに伴い、奴隷制は南北の対立の焦点となっていった。この対立は数度の妥協を挟んで先鋭化していき、1860年に奴隷制度反対派の共和党・エイブラハム・リンカーン大統領の当選によって破局を迎え、1861年に南北戦争が勃発することとなった。この戦争の中で1863年にリンカーンが奴隷解放宣言を行い、南部の降伏とともにアメリカでも奴隷制が廃止された[74]。ブラジルでは奴隷制廃止が遅れたものの、1888年に奴隷制は廃止されることとなった[75]
奴隷制廃止後

奴隷制の廃止は、解放された元奴隷達の地位向上を必ずしも意味しなかった。アメリカ南部では急進派共和党の主導権の元でリコンストラクションと呼ばれる南部統治が行われ、奴隷の即時解放や黒人参政権の承認が行われたものの、クー・クラックス・クランらの武装勢力による黒人襲撃が多発し、民主党の復権とともに黒人の権利は狭められていった。そして1877年には南部からのアメリカ軍の完全撤退によって共和党州政府は全て崩壊し、以後黒人は経済的にも政治的にも長く抑圧されつづけることとなった[76]。ブラジルでは1888年に奴隷の無償即時解放が行われたが、これはブラジルを支配する大農園主層の激しい不満を招き、翌1889年にデオドロ・ダ・フォンセカのクーデターによってブラジル帝国は崩壊、皇帝ペドロ2世は亡命して、共和制のブラジル合衆国が成立した[77]

奴隷制の廃止された地域では、不足する労働力の代替としてさまざまな制度が考案され実施された。イギリス領植民地においては主にサトウキビプランテーションを基盤とする地域において、諸費用の前貸しと引き換えに3年から5年間の労働を雇用者の元で行う年季奉公契約労働者の大量導入が行われた[78]。アメリカ南部ではシェアクロッピング制度と呼ばれる分益小作制度が導入され、解放奴隷の多くは地主の元で小作人化したものの、地主の横暴や搾取、黒人の貧困はほとんど変わらなかった[79]。ブラジルにおいては解放以前から主な奴隷使用者であるコーヒー農園において賃金による自由労働化が進展しており、解放の進んでいなかったリオデジャネイロ州においてはコーヒー生産の減退を招く一方、従来から自由労働化が進んでいたサンパウロ州ではさらにコーヒー生産が発展することとなった[80]
現代奴隷制

21世紀において、法的に奴隷制を認めている国は1ヶ国も存在しない。1948年に採択された世界人権宣言では、第4条において奴隷制度並びに奴隷売買を明確に禁じている[81]。1930年には強制労働条約で強制労働が禁止されるようになり、1957年の強制労働の廃止に関する条約において禁止はさらに強化された[82]

一方で、人身売買などによって自由を制限され、劣悪な環境と拘束のもとにある人々はいまだに多く、そうした状態は総称して現代奴隷制(英語版)と呼ばれる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef