逃亡はどの社会でも禁止されていたが、実際に逃亡奴隷は多く、なかでも16世紀以降の新大陸においてはマルーンと呼ばれる逃亡奴隷が大量に発生し、しばしば山岳地帯や辺境に共同体を築き上げ、またその地域のアメリカ先住民と通婚して同化し、白人と戦闘を行った。山岳に立てこもってイギリス軍と長期にわたる戦闘を繰り広げたジャマイカのマルーンや、内陸に一大勢力を築いたブラジルのキロンボなどが知られている[44]。アメリカ合衆国において19世紀半ばに奴隷制廃止運動が盛んになると、南部の奴隷州から北部の自由州へと奴隷の逃亡を手助けする地下鉄道と呼ばれる秘密結社が結成され、多くの奴隷がこのルートで逃亡していった[45]。ただし1793年の逃亡奴隷法では逃亡奴隷を元の所有者へと戻すべきことが規定されており、1850年にはこの法が強化されて自由州各地で衝突が起こるようになった[46]。
また奴隷が反乱を起こすことも歴史を通じてみられ、共和政ローマにおける3度の奴隷戦争、なかでも第三次奴隷戦争(スパルタクスの反乱)や、9世紀のアッバース朝統治下メソポタミアで起きたザンジュの乱などのように、一国を揺るがすような大反乱へとつながることもあった。なかでも1791年にフランス領サン=ドマングで勃発した奴隷反乱は、トゥーサン・ルーヴェルチュールやジャン=ジャック・デサリーヌらの指導の下でハイチ革命となり、フランス軍を追放して1804年にはハイチとして独立した[47]。
1833年にイギリスが奴隷制を廃止すると、イギリス海軍はアフリカ沿岸において奴隷貿易船の取り締まりを開始し、船上に乗っていた奴隷達の解放を開始した。当初は自国船籍の船舶に限られていたものの、1848年以降は他国の奴隷船も停止させ、奴隷解放を行うようになった。こうした船上解放奴隷はフリータウンやモンロビアといった近隣の解放奴隷入植地において解放され、多くのものはここで定着した[48]。
18世紀末には奴隷解放の動きが強まるなかで、黒人解放奴隷をアフリカの入植地に植民させる国家が現れた。1787年にはグランビル・シャープの支援の元、イギリスの解放奴隷がシエラレオネ半島へと入植し、数度の失敗ののちフリータウン市を中心とした植民地の建設に成功し、イギリス海軍の奴隷貿易取り締まりによって解放された黒人がここに流入することによって拡大していった[49]。ついで1821年にはアメリカ植民地協会が西アフリカに土地を獲得して解放奴隷の入植を始め[50]モンロビア市を建設、1847年にはこの植民地が独立してリベリアが建国された[51]。さらに1849年にはフランスが解放奴隷の入植地としてリーブルヴィル市を建設した[52]。
またこれによって解放奴隷間の混血が進み、シエラレオネではクリオ[53]、リベリアではアメリコ・ライベリアンと呼ばれる新たな民族が誕生した[54]。こうした解放奴隷たちはヨーロッパ式の高い教育を受けたものが多く、現地の支配階層を形成するようになった[53][54]。
歴史
近代まで「古代ギリシアの奴隷制」、「古代ローマの奴隷制」、「イスラームと奴隷制」、「中国の奴隷制」、および「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」も参照
古くから一般に家長権のもとに家族の構成部分として家内労働に使役されたが(家父長制奴隷)、古代ギリシア、古代ローマ、カルタゴや近世のアメリカ大陸などでは、プランテーション、鉱山業などの生産労働に私的、公的に大規模に使役された(労働奴隷)。古代ギリシアでは当初は債務奴隷が主に使役されていたが、やがて奴隷貿易などによる供給が主流となり、主に工業用途に使用された[55]。古代ローマでは主に戦争捕虜として大量の奴隷が流入し、鉱山やラティフンディウムと呼ばれる大農園、ワインやオリーブ油などの生産など、広範な分野において使役された[56]。
歴史上、とくに大規模な奴隷制として、15世紀から19世紀半ばまで大西洋地域に成立した近代奴隷制が挙げられる。このシステムは15世紀、ポルトガルがマデイラ諸島で、スペインがカナリア諸島で推し進めたサトウキビ農園に直接の起源を持つ[57]。これらの島々に作られたプランテーションにおいては奴隷が労働力として多数使用され、供給はギニア湾岸の黒人諸地域からなされていた。クリストファー・コロンブスの新大陸発見と同時に現地住民の奴隷化も進められたものの、疫病や圧政による急激な先住民人口の減少によって半世紀もしないうちに歯止めがかかり、代わってアフリカ大陸からの奴隷供給が主流となった[58]。新大陸では北アメリカからカリブ海諸島、ブラジルに至るまで、イギリス、フランス、スペイン、オランダ、ポルトガルによって多数のプランテーションが建設されたが、ここでの労働力はほとんどがアフリカから奴隷船によって供給された黒人奴隷によってまかなわれた[59]。この奴隷流入によって多数の黒人がこの地域に移住することになり、とくに先住民人口がほぼ消滅していたカリブ海諸島においては多くの地域で黒人が多数派となった[60]。 18世紀後半に入ると、ヨーロッパやアメリカでは啓蒙思想の広がりのなかで奴隷制への批判の動きが出てきた。ただし奴隷制度と奴隷貿易は社会に大きな部分を占めており、廃止には社会構造の大きな転換を伴うことから、啓蒙思想家の多くは奴隷制に批判的だったものの廃止を求めるものはほとんどいなかった[61]。奴隷制廃止の動きは18世紀半ば以降イギリスで始まった。1772年のサマーセット事件
奴隷廃止
奴隷制度廃止運動は、メソジスト派やクエーカー教徒といったプロテスタントの小宗派からはじまり、アメリカ北部のいくつかの植民地では18世紀末には奴隷制の廃止される地域が出現し始めた[64]。ついでフランス革命によってフランスでも1794年に奴隷制が廃止されたものの、ナポレオンは1803年に奴隷制を復活させ[65]、完全な廃止は二月革命後の1848年を待たねばならなかった[66]。イギリスでは人道主義者や福音主義者、そして砂糖の関税引き下げと自由貿易を求める産業資本家によって支持された奴隷貿易廃止運動が活発化し[67]、1807年にイギリス国会で奴隷貿易禁止法が成立した[68]ことで、奴隷貿易は終結へと動き始めた。最大の海運国であるイギリスの奴隷貿易廃止は他国の奴隷貿易にも甚大な影響を与え、さらにイギリスが他国にも奴隷貿易の廃止を迫ったことで、19世紀前半には奴隷貿易は衰退の一途をたどった[69]。フランスも1848年に奴隷制および奴隷貿易の禁止に踏み切り、ポルトガルやスペインなど残る諸国も1860年頃には奴隷貿易を停止した[70]。