奴隷制
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人種が奴隷制に大きな役割を果たしたのは新大陸であり、またイスラム圏でも強い相関が存在したが[23]、そのほかの社会でも人種は決して奴隷化と無関係ではなく、民族ほどではないにせよ相関が存在した[24]。18世紀に入ると、ヨーロッパにおいては人種と奴隷制を結びつける言説が強化された。これは、当時ヨーロッパ文明圏に流入する奴隷のほぼ全員が黒人だったからである。ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハらによって誕生したばかりの人類学は人種の概念を体系化し、人種主義へとつながっていった[25]。北アメリカ大陸のイギリス植民地においては、創設当初は奴隷制が確立しておらず年期契約奉公人による期限を切った労働が中心であったとされるが[26][27]、やがて17世紀後半には人種と結びついた奴隷制が確立した[28]

イスラム教は、ムスリムの奴隷化を禁じていた。このため、イスラム教圏に供給される奴隷は教圏外のブラックアフリカや東ヨーロッパ、中央アジアからの奴隷が中心となり、12世紀以後はブラックアフリカがイスラム圏への主な奴隷の供給源となった[29]。しかしムスリムの奴隷化禁止は必ずしも厳格に守られたわけではなく、イスラム化した黒人地域への襲撃と奴隷化は頻繁に起こっていた。すでに13世紀には、イスラム化したカネム・ボルヌ帝国からマムルーク朝に宛てて、黒人ムスリムの奴隷化を中止するよう嘆願する書簡が送られている[30]
実態主人によって鞭打たれた奴隷(1863年)

奴隷の使途は多岐にわたり、輸出された地域においても主な使途には違いがあった。サハラ交易によってアフリカからイスラム圏へと輸出された奴隷は若い女性が大半を占め、召使として使われることが多かった。また男性奴隷はナツメヤシ園などの管理や軍の兵士などに使われた[31]。インド洋交易においては建設労働や家内奴隷、軍の兵士などが多かったが、18世紀後半にプランテーション農業が盛んになると、モーリシャスレユニオンのサトウキビ農園や、ザンジバル島ペンバ島クローブ農園などで大量の農業奴隷が使役されるようになった[32]。イスラム圏のいくつかの国家では積極的に黒人奴隷兵を採用しており、とくにエジプトトゥールーン朝ファーティマ朝モロッコアラウィー朝は大規模な黒人奴隷軍の編成で知られる[33]。ファーティマ朝を打倒したアイユーブ朝は黒人奴隷兵をほとんど使用しなかったが[33]、変わってマムルークと呼ばれる白人奴隷兵が多く使役されるようになり、やがて1250年にマムルークたちはアイユーブ朝を打倒してマムルーク朝を建国した[34]。これに対し、大西洋交易で輸出された奴隷のほとんどはプランテーションにて農業奴隷として使用された。カリブ海諸島やブラジルでは主にサトウキビ農園で奴隷が使用され[35]、北アメリカ植民地では当初はタバコ農園[36]、19世紀の深南部では綿花農園で奴隷が大量に使役された[37]

特殊な技術を持つ奴隷は価値が高く、多くの社会において技術のない奴隷よりは高い待遇を受けることができた[38]。奴隷は所有者の財産であり、本質的には個人的な財産所有を認められていなかったものの、奴隷の存在するすべての社会において主人の許可の元で財産を所有することは認められていた。ただし「主人の許可の元で」の財産所有であるため、本来の所有権は主人に所属しており、当該奴隷が死去すればその財産は再び主人の下へと戻り、家族への相続権はすべての社会において認められていなかった[39]。ほとんどの社会において、奴隷は結婚家族を持つことができた[40]。19世紀のアメリカ南部では奴隷の結婚が奨励され、自ら望む相手と結婚することが多かったが、一方で奴隷売買も盛んに行われており、家族が別々に売却されてバラバラになることも多かった[41]
解放と逃亡

奴隷が解放されることはほとんどの社会で存在し、解放された奴隷は解放奴隷として独特な地位を占めることが多かった。解放奴隷は多くの場合自由民からは一段低い立場と見なされた[42]。またすべての社会において、解放奴隷は元の主人の保護下に置かれた[43]。奴隷の解放については社会や時代によって態度に幅があり、古代ローマなどは積極的に奴隷解放を行っていたことが知られる一方、19世紀のアメリカ南部では奴隷貿易の禁止によって奴隷の資産価値が上がるにつれ解放は減少し、ほとんどが国内において売却されるようになった[19]

逃亡はどの社会でも禁止されていたが、実際に逃亡奴隷は多く、なかでも16世紀以降の新大陸においてはマルーンと呼ばれる逃亡奴隷が大量に発生し、しばしば山岳地帯や辺境に共同体を築き上げ、またその地域のアメリカ先住民と通婚して同化し、白人と戦闘を行った。山岳に立てこもってイギリス軍と長期にわたる戦闘を繰り広げたジャマイカのマルーンや、内陸に一大勢力を築いたブラジルのキロンボなどが知られている[44]。アメリカ合衆国において19世紀半ばに奴隷制廃止運動が盛んになると、南部の奴隷州から北部の自由州へと奴隷の逃亡を手助けする地下鉄道と呼ばれる秘密結社が結成され、多くの奴隷がこのルートで逃亡していった[45]。ただし1793年の逃亡奴隷法では逃亡奴隷を元の所有者へと戻すべきことが規定されており、1850年にはこの法が強化されて自由州各地で衝突が起こるようになった[46]

また奴隷が反乱を起こすことも歴史を通じてみられ、共和政ローマにおける3度の奴隷戦争、なかでも第三次奴隷戦争(スパルタクスの反乱)や、9世紀アッバース朝統治下メソポタミアで起きたザンジュの乱などのように、一国を揺るがすような大反乱へとつながることもあった。なかでも1791年にフランス領サン=ドマングで勃発した奴隷反乱は、トゥーサン・ルーヴェルチュールジャン=ジャック・デサリーヌらの指導の下でハイチ革命となり、フランス軍を追放して1804年にはハイチとして独立した[47]

1833年にイギリスが奴隷制を廃止すると、イギリス海軍はアフリカ沿岸において奴隷貿易船の取り締まりを開始し、船上に乗っていた奴隷達の解放を開始した。当初は自国船籍の船舶に限られていたものの、1848年以降は他国の奴隷船も停止させ、奴隷解放を行うようになった。こうした船上解放奴隷はフリータウンやモンロビアといった近隣の解放奴隷入植地において解放され、多くのものはここで定着した[48]

18世紀末には奴隷解放の動きが強まるなかで、黒人解放奴隷をアフリカの入植地に植民させる国家が現れた。1787年にはグランビル・シャープの支援の元、イギリスの解放奴隷がシエラレオネ半島へと入植し、数度の失敗ののちフリータウン市を中心とした植民地の建設に成功し、イギリス海軍の奴隷貿易取り締まりによって解放された黒人がここに流入することによって拡大していった[49]。ついで1821年にはアメリカ植民地協会西アフリカに土地を獲得して解放奴隷の入植を始め[50]モンロビア市を建設、1847年にはこの植民地が独立してリベリアが建国された[51]。さらに1849年にはフランスが解放奴隷の入植地としてリーブルヴィル市を建設した[52]

またこれによって解放奴隷間の混血が進み、シエラレオネではクリオ[53]、リベリアではアメリコ・ライベリアンと呼ばれる新たな民族が誕生した[54]。こうした解放奴隷たちはヨーロッパ式の高い教育を受けたものが多く、現地の支配階層を形成するようになった[53][54]
歴史
近代まで「古代ギリシアの奴隷制」、「古代ローマの奴隷制」、「イスラームと奴隷制」、「中国の奴隷制」、および「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」も参照


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