奴隷制度廃止運動
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この私的な交渉の結果、シエラレオネの一部が1807年から1808年のイギリス議会で成立した法律で保護されることになり、その後も地域の族長達に奴隷貿易をやめさせることに合意させる交渉が続き、イギリスの西アフリカで影響力が拡大していった。この合意事項の中には、商人が奴隷を運ばないことを確実にするため、イギリス海軍の艦船が族長たちの船を止める権利があることも含まれていた。

1796年、ジョン・ガブリエル・ステッドマンは、内陸に住むマルーン(逃亡奴隷)を抑えるためにスリナムに派遣された軍隊に5年間従軍した記録を出版した。この本は奴隷の待遇を批判しており、逃亡奴隷に対して課される残酷な処遇をウィリアム・ブレイクやフランチェスコ・バルトロッチに書かせた多くの挿画を収めていた。この本は奴隷制度廃止運動に関わる書籍の中でも重要なものとなった。
1807年の奴隷貿易法

1807年3月25日、イギリス議会で奴隷貿易法(en:Slave Trade Act 1807)が成立し、イギリス帝国全体での奴隷貿易を違法と定めた。イギリス船で奴隷が見つかった場合の科料は1人あたり100ポンドとされた。

この法の成立によって奴隷制度廃止運動にさらに力が備えられることになった。しかし、この時期はナポレオン戦争が激しくなる時と時期を同じくしていた。ナポレオンは、フランス革命の時に廃止されていた奴隷を復活させる後ろ向きの決断をくだし、フランス領のカリブ海諸島に黒人を奴隷にする軍隊を派遣したとき、イギリス帝国はその奴隷貿易を禁じる法によって高い道徳的立場に立つことになり、戦争のあらゆる時と場所において重要な観点となった。

この法律の意図はイギリス帝国の中で奴隷貿易を完全に違法とすることであった。しかし、その一方で、罰則が緩かった為に奴隷貿易(英語版)はひき続き行なわれ、イギリス海軍に捕まりそうになった船長は科料を減らすために奴隷を海に突き落とすこともしばしば行われた。また、南アフリカの英領ケープ植民地では、1809年にホッテントット条例(: The vagrancy and pass laws of 1809)を施行し、イギリス帝国も二枚舌の政治を行なっていた。
1833年の奴隷制度廃止法

1807年の法律成立後、奴隷はイギリス本国の中で表立って売買されなかったものの、依然として売買・所有されていた。1820年代、奴隷制度廃止運動が再び活発になり、この時は奴隷制度そのものに対して反対する運動であった。1823年には反奴隷制度協会が作られた。運動参加者の多くは以前の奴隷貿易に反対する運動に参加した者であった。1824年、イギリスはen:Slave Trade Act 1824によって罰則を強化し、1807年の法律を実効性のあるものにしようとした。1827年、イギリスは奴隷貿易に関わった者は海賊行為と見なし、死刑に値すると宣言した。1828年にホッテントット条例も廃止された。

1833年8月23日、奴隷制度廃止法(en:Slavery Abolition Act 1833)が成立し、イギリスの植民地における奴隷制度を違法とした。1834年8月1日、イギリス帝国内の全ての奴隷は解放されたが、年季奉公制度で元の主人に仕える者は残った。この年季奉公も1838年には廃止された。カリブ海のプランテーション所有者には補償のために2千万ドルが支払われた。この財源としてロスチャイルドは1500万ポンドの金塊を供出していたが、それまでロスチャイルド自身も奴隷制に関わっていた[3][4]
法成立後の運動

1839年からイギリスと海外反奴隷制度協会は他の国でも奴隷制度を違法とするよう働きかけ、奴隷貿易業者を海賊と宣言し罰することで奴隷貿易を抑え込むよう政府に圧力を掛けた。この組織は今日でも反奴隷制度インタナショナルとして継続している。
フランス

他の「新世界」植民地では、大西洋貿易によってフランス植民地のサトウキビ・プランテーションに労働力を供給していた。フランス領西インド諸島には、現在の呼び方で、アンギラ(短期間)、アンティグア・バーブーダ(短期間)、ドミニカ国ドミニカ共和国グレナダハイチモントセラト(短期間)、セントルシアセントビンセント・グレナディーンシント・ユースタティウス島(短期間)、セントクリストファー・ネイビスネイビス島を除く)、トリニダード・トバゴトバゴ島のみ)、セント・クロイ島(短期間)、および現在のフランス海外県であるマルティニークグアドループサン・マルタン島の北半分とサン・バルテルミー島を含む)が含まれていた。

奴隷貿易はルイ14世の黒人法(英語版) (フランス語: Code Noir)によって規制されていた。奴隷制度は1791年トゥーサン・ルーヴェルチュールによるサン=ドマングでのハイチ革命後に初めて廃止された。反乱軍は奴隷制度の廃止を要求し、1794年2月4日ジャコバン派の率いるフランス第一共和政 (1792 - 1804) はプリュヴィオーズ16日法を可決して奴隷制度の廃止を決議した。アンリ・グレゴワールと、ジャック・ピエール・ブリッソーが指導する「黒人の友の会」(Societe des Amis des Noirs) が奴隷制度廃止運動の一部を担い、フランス本土における反奴隷制度感情を作り上げる重要な基盤を築いた。法律の第一条はフランス植民地における「奴隷制度は廃止する」としていたが、第二条は奴隷の対価に応じて「奴隷所有者は補償される」とされていた。

しかし、ナポレオンは第一執政となった後に奴隷制度を復活させ、これを強いるために軍政府長官と軍隊を派遣した。1802年5月10日、グアドループでデルグレ大佐がナポレオンの代理人リシェパンス将軍に対して反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、奴隷制度が再構築された。この事件に関する情報がハイチに伝わり、ジャン=ジャック・デサリーヌらに1804年ハイチ独立につながる反乱を起こさせた(ハイチ革命)。1848年4月27日第二共和政 (1848 - 1852) の下で、ヴィクトル・シュルシェールの緊急命令により、再び奴隷制度は廃止された。国はコロン(白人植民者、クレオール言語のベケ)から奴隷を買い上げ、解放した。

しかし、ほぼ同じ頃に、フランスはアルジェリアを皮切りにアフリカの植民地化を始め、奴隷に等しい労働条件で鉱山、樹木の伐採およびゴムプランテーションに人を送り込んだ。

植民地政策の評価に関する議論が今日でも続いている。2001年5月10日、クリスチャーヌ・トービラの法では、奴隷制度と大西洋奴隷貿易を人道に対する罪だと公式に認めた。5月10日は幾つかの候補の中から奴隷制度の犯罪を認める日に選ばれた。反植民地主義活動家は、アフリカ解放の日(5月25日)も共和国に認められるよう要求している。この法によって奴隷制度の犯罪は認められたが、4年後の2005年2月23日、保守系の国民運動連合 (UMP) による教師と教科書に「特に北アフリカにおけるフランスの統治の積極的な役割を認め認識する」ことを求める法律の成立が、フランス国内でも海外でも大衆の騒乱と歴史修正主義に対する非難を呼んだ。アルジェリアの大統領アブデルアジズ・ブーテフリカは、この法の故に計画されていたフランスとの「友好条約」への署名を拒んだ。有名なマルティニークの作家でネグリチュード (Negritude) 運動の指導者のエメ・セゼールは、UMP指導者のニコラ・サルコジとの会談を拒否し、サルコジのマルティニーク訪問をキャンセルさせた。この議論を呼んだ法律は2006年の初めにジャック・シラクによって撤廃された。
ワラキアとモルダヴィア

ワラキアモルダヴィア公国(ルーマニアの地方)において、18世紀中ごろに農奴が解放された(ワラキアは1746年、モルダヴィアは1749年)が、ロマ(しばしばジプシーと呼ばれる)の奴隷化は19世紀の初めまで合法であった。


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