黒人は奴隷制度廃止運動で重要な役割を演じた。イギリスでは、その自叙伝が生きている間に9版を重ねたオローダー・エキアーノが黒人貿易に反対する疲れを知らぬ運動を続けた。 1787年、クエーカー9名と国教会福音派3名がロンドンで奴隷貿易廃止促進協会を設立し奴隷貿易廃止運動を全国的に展開し始めた[2]。イギリス商人による奴隷密売である大西洋奴隷貿易に言及した。イギリス商人はブリストルやリヴァプールなどの港からイギリス製品を積み込み、アフリカの族長階層で奴隷制度と結びついている西アフリカで製品を売るか奴隷と交換し、奴隷を連れてイギリスの植民地や他のカリブ海諸国あるいはアメリカ合衆国に船で運び、そこで農園主に奴隷を売るかラム酒や砂糖と交換し、それをイギリスの港に持ち帰った。これら商人が一回の周航中に3箇所で取引をするので三角貿易と呼ばれた。18世紀遅くには、奴隷貿易の非人道性に対する政治的な影響力が強くなっていった。多くの人々が、ある者はアフリカ人、ある者はヨーロッパ人となった子孫が奴隷制度廃止運動に影響を与えた。イギリスでよく知られた奴隷制度廃止論者は、自分自身が直に貿易の残酷さを見てきたジェイムズ・ラムゼー、グランビル・シャープ、トマス・クラークソンや福音主義改革者のクラファム派の他のメンバー達、また奴隷貿易の廃止のための委員会の大半を占めたクエーカー教徒だった。非国教徒としてクエーカー教徒は18世紀遅くや19世紀初期にイギリスの議会に入れなかったので、福音主義者のウィリアム・ウィルバーフォースがイギリス議会を説得して運動の指導者になった。クラークソンは集団の最も顕著な研究者となり、ブリストル、リヴァプールおよびロンドンなどの港で船員や元奴隷に直に面接して証言を得て、奴隷貿易に関する大量の情報を集めた。 クラークソンの努力が功を奏して、奴隷制度廃止運動の地域の輪が全国に広がった。大衆討議の場を持ったりパンフレットや請願書を発行して運動を続けた。クラークソンや奴隷貿易の廃止のための委員会が販売促進した初期の出版物は、解放奴隷オローダー・エキアーノの自叙伝だった。この運動には解放奴隷やキリスト教宗派であるエマヌエル・スヴェーデンボリの流れを汲む新エルサレム教会、クエーカー、バプテスト、メソジストなどから支援があり、イングランド中部と北部の都市の新しい工場労働者からの支持もあった。以前は政治的に力の無かった女性や子供達も運動に関わっていった。ただし、女性の場合は集会も別のものになり、また男性で占められているイギリス議会に出る資格も無かった。 奴隷制度廃止運動の際立った計画は、西アフリカに「自由の町」を作るために土地の買収交渉を族長達と行うことだった。これはイギリス帝国やアメリカ合衆国の元奴隷を西アフリカに戻して定着させる意図があった。この私的な交渉の結果、シエラレオネの一部が1807年から1808年のイギリス議会で成立した法律で保護されることになり、その後も地域の族長達に奴隷貿易をやめさせることに合意させる交渉が続き、イギリスの西アフリカで影響力が拡大していった。この合意事項の中には、商人が奴隷を運ばないことを確実にするため、イギリス海軍の艦船が族長たちの船を止める権利があることも含まれていた。 1796年、ジョン・ガブリエル・ステッドマンは、内陸に住むマルーン(逃亡奴隷)を抑えるためにスリナムに派遣された軍隊に5年間従軍した記録を出版した。この本は奴隷の待遇を批判しており、逃亡奴隷に対して課される残酷な処遇をウィリアム・ブレイクやフランチェスコ・バルトロッチに書かせた多くの挿画を収めていた。この本は奴隷制度廃止運動に関わる書籍の中でも重要なものとなった。 この法の成立によって奴隷制度廃止運動にさらに力が備えられることになった。しかし、この時期はナポレオン戦争が激しくなる時と時期を同じくしていた。ナポレオンは、フランス革命の時に廃止されていた奴隷を復活させる後ろ向きの決断をくだし、フランス領のカリブ海諸島に黒人を奴隷にする軍隊を派遣したとき、イギリス帝国はその奴隷貿易を禁じる法によって高い道徳的立場に立つことになり、戦争のあらゆる時と場所において重要な観点となった。 この法律の意図はイギリス帝国の中で奴隷貿易を完全に違法とすることであった。しかし、その一方で、罰則が緩かった為に奴隷貿易 1807年の法律成立後、奴隷はイギリス本国の中で表立って売買されなかったものの、依然として売買・所有されていた。1820年代、奴隷制度廃止運動が再び活発になり、この時は奴隷制度そのものに対して反対する運動であった。1823年には反奴隷制度協会が作られた。運動参加者の多くは以前の奴隷貿易に反対する運動に参加した者であった。1824年、イギリスはen:Slave Trade Act 1824
運動の成長
1807年の奴隷貿易法)が成立し、イギリス帝国全体での奴隷貿易を違法と定めた。イギリス船で奴隷が見つかった場合の科料は1人あたり100ポンドとされた。
1833年の奴隷制度廃止法
1833年8月23日、奴隷制度廃止法(en:Slavery Abolition Act 1833)が成立し、イギリスの植民地における奴隷制度を違法とした。1834年8月1日、イギリス帝国内の全ての奴隷は解放されたが、年季奉公制度で元の主人に仕える者は残った。この年季奉公も1838年には廃止された。カリブ海のプランテーション所有者には補償のために2千万ドルが支払われた。この財源としてロスチャイルドは1500万ポンドの金塊を供出していたが、それまでロスチャイルド自身も奴隷制に関わっていた[3][4]。 1839年からイギリスと海外反奴隷制度協会は他の国でも奴隷制度を違法とするよう働きかけ、奴隷貿易業者を海賊と宣言し罰することで奴隷貿易を抑え込むよう政府に圧力を掛けた。この組織は今日でも反奴隷制度インタナショナルとして継続している。 他の「新世界」植民地では、大西洋貿易によってフランス植民地のサトウキビ・プランテーションに労働力を供給していた。フランス領西インド諸島には、現在の呼び方で、アンギラ(短期間)、アンティグア・バーブーダ(短期間)、ドミニカ国、ドミニカ共和国、グレナダ、ハイチ、モントセラト(短期間)、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、シント・ユースタティウス島(短期間)、セントクリストファー・ネイビス(ネイビス島を除く)、トリニダード・トバゴ(トバゴ島のみ)、セント・クロイ島(短期間)、および現在のフランス海外県であるマルティニークとグアドループ(サン・マルタン島の北半分とサン・バルテルミー島を含む)が含まれていた。 奴隷貿易はルイ14世の黒人法
法成立後の運動
フランス