奴婢
[Wikipedia|▼Menu]
その職務としては、主に耕作に従事していた[7]

唐の律令を模倣した皇朝律例によると、官司に報告することなく罪を犯した奴婢を殺した家長(=所有者)は杖罪70。罪なき奴婢を殴殺した者は徒刑3年。同じく罪なき奴婢を故殺した者は流刑二等と定められていた。捕亡令によると、逃亡した公私の奴婢を捕まえた場合、持ち主は捕縛者に報奨することが定められていた。逃亡後1ヵ月なら奴婢の価値の1/20、1年以上ならば1/10を支払うものとされた。逃げた奴婢が病気や70歳以上の高齢で使役に利用できない場合はこれらの額が半減。奴婢が以前の持ち主のもとに逃げて捕まえられた場合も半減とされた。奴婢が幼くて持ち主を特定できない場合は立札で告知され、1年以内に名乗り出なかった場合は公奴婢に組み入れ、捕縛の報酬は官が払うことになった。

日本の公的身分制度としての奴婢身分は律令制の崩壊と共に瓦解した。10世紀初頭である平安時代中期の寛平の治から延喜の治の間に、官奴婢廃止令が出されたとされる。
律令制崩壊後

律令制での身分制度として賤民奴婢は消滅したが、その後も奴隷は中世を通じて存在して広く売買され、これらは用途によって様々な呼称があるが、総称としては同様に奴婢と呼ばれた。

鎌倉幕府嘉禄元年(1225年)に人身売買禁止令[要出典]を出したが、南北朝の騒乱や統制の緩い室町幕府、戦国時代では乱妨取りなどによる人狩りもしばしば見られ、盛んに奴隷が取引された。ポルトガルなど海外へ売られた例もある(ポルトガルの奴隷貿易#アジア人の奴隷)。

江戸幕府は、慶長17年(1612年)、元和5年(1619年)、天和3年(1683年)と、度々禁令を発して人身売買を禁止したが実効性は全く無く、変わらず身売りが日常的且つ大量に行われた。江戸時代の刑罰(身分刑)のひとつに奴(やっこ)というものがあり、これは女性に対して科せられるもので、人別帳から除き個人に下げ渡し一種の奴婢身分とし、多くは新吉原などの娼婦として使役されたものであった。
朝鮮

奴婢
各種表記
ハングル:??
漢字:奴婢
発音:ノビ
ローマ字:Nobi
テンプレートを表示

朝鮮においては、起源と発展が他国と異なる奴隷制度であり、高麗時代に完成した制度で、同じく奴婢と漢字で書くが、ノビ(朝鮮語ラテン翻字: Nobi)と読む。

奴婢は主人の所有物であり財産であって、売買・略奪・相続・譲与・担保・賞与の対象となっていた。また、一般的に職業選択の自由、家族を持つ自由、居住移転の自由などが制限されており、一定の年齢に達したり、その他の条件で解放される場合もあった。しかしながら、基本的には牛馬家畜と同じ扱いであり、市場などで取引(人身売買)されていた。

奴婢となったいきさつは、奴婢の子、捕虜、犯罪者、窃盗犯、逆賊の妻子で賤民に落とされた者、借金の抵当などさまざまであった。しかし、最も数が多かったのは王朝が滅亡した時であり、百済滅亡時に百済の民はいずれも奴婢とされた。

朝鮮の奴婢制度は、箕子朝鮮刑法犯禁八条に始まったと言われる。そこでは他人の家に盗み入った者はその家の奴隷とする、男なら奴、女なら婢、と定められていた[8]。この箕子朝鮮に始まった奴婢制度は、箕子朝鮮から馬韓に受け継がれた。その後数百年間は存続と廃止を繰り返すが、実質的には維持され、935年高麗による朝鮮半島統一に至るまでの内戦により、戦争の捕虜や経済的困窮で奴婢となった者が激増した[9]

また、高麗王靖宗の治世には、良賤交嫁を想定して身分制度を維持するために、1039年に婢女が生んだ子供は主人(非賤民)の所有物とされ、生母[注 3]が賤民ならば子供も奴婢とするという、「賤者随母法(奴婢随母法)」が定められた。官吏は8世代に渡って家族に奴婢がいないことが証明できないと登用されないとされ、この高麗で完成された随母主義の原則がその後も朝鮮では引き継がれた特徴である。

1300年モンゴルから高麗の征東行省に派遣されていた皇族.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}闊里吉思(英語版)(コルギス)は、高麗の国政への介入の一環として高麗における奴婢制度の廃止を求めたが、ときの国王忠烈王は「わが始祖は賤類とは種類が違う」と言って拒否した[10]

李氏朝鮮の時代では、王族に継ぐ最上位に両班、次に中人、常民(良民、平民)、奴婢という制度が法律化されていた。

1410年代には、奴婢の人口比や王族や貴族の奴婢保有数が全盛期を迎えていた。それほど多かったので、王族や貴族など奴婢を保有出来る高位でも奴婢を300人以上の所有してはいけないという法律まであった。当時の中央の高位の公職の身分なら、奴婢を100人以上の所有したほどだった。当時の王で名君と韓国ではされている世宗は、奴婢制の拡大と妓生制の拡散、事大主義の強化を行っている。両班と女性奴婢が結婚すると、子は父に沿って両班という高位身分になるようにした既存の良い法さえ廃止した。奴婢でないの男性と奴婢の女性の間で産んだ子を奴婢に規定して、父が誰であれすべての奴婢の子は、母に沿って奴婢になるようにした法律が制定された多くの奴婢を望む要望があったからだと分析されている[11][12]。奴婢の交換価値は、奴婢制度が法的に廃止された甲午農民戦争の当時で、美貌の婢一人以上を含む奴婢五人で牛一頭であった[13]。ただし、李氏朝鮮の時代には奴婢貢という賤民を対象とした税金があり、奴婢は主人に使役されながらも、王に対しても別に定められた枚数の木綿を納布する義務があった。

奴婢には、官奴婢(公賤)と私奴婢(私賤)が存在し、住まい及び結婚職業の選択の自由に制限を受けており、法的に市場での売買が可能であった。官奴婢は、他の奴婢よりも高い地位にあり、良民と奴婢との中間のような立場であった。ただし、官奴婢の一部は徴税を代行していたために、地方の農民より裕福な者も存在していた。

官奴婢には非常に沢山の種類があり、役目によって細目化されていた。ドラマなどで有名になった医女も官奴婢から選抜されたもので、後期は薬房妓生と呼ばれた。妓生とは朝鮮において諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露するために準備された婢であった。官婢には少年も含まれ、童便軍士は12歳未満の男児であった。

朝廷が功臣に下賜された官奴婢のことは丘史[注 4]と呼ばれた。朝鮮では、良民が60歳以上になった場合は、奉足(補欠の意味)として2名の奴婢が与えられた。同じく80歳以上になった場合は、侍丁として官奴婢が与えられた。

文禄・慶長の役の際には、奴婢が反乱を起こして役所に火を放ち戸籍を燃やしてしまい、それによって賤民を脱した者がいた。また、戦費を獲得するために一定の額を支払った奴婢は良民になれるようにされたため、以後、身分制度は混乱して、ある地方では37%居た奴婢が2%まで減少し、代わりに人口の9%に過ぎなかった両班が70%を占めるという状況も起きた。

また、奴婢とは別に「白丁」と呼ばれる賤民が存在した。奴婢が主人の所有物であったのに対し、彼らは誰かの所有物ではなかったが、職業は特定のものに限定され、規則をやぶれば厳罰を受け、時にはリンチで殺害された。白丁は人間ではないとされていたため、殺害犯は罰を受けなかった。

1894年甲午改革に至って、奴婢制度・白丁制度が法的に廃止されたが、奴婢・白丁といった賤民階層への差別は続き、実質的に存続していた。甲午改革を推進した金玉均は、朝鮮社会の封建的身分制度こそ不平等の根源であり、ひいては国家の腐敗、衰退の主因と主張している[14]。詳細は「白丁」を参照

朝鮮半島で実質的に奴隷制度が廃止されたのは、日韓併合の前年1909年である。この年に韓国統監府戸籍制度を導入することで、人間とは見なされていなかった姓を待たない賤民階層にも姓を許可した[15]。これにより、彼らの子供たちは学校に通えるようになり、身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された[15]

だが、1980年にソウルで発行された本には、「奴婢の制度は支配階級のひどい虐待のもとで、ごく最近まで続いた。1920年代においても朝鮮の家庭ではほとんど例外なく、聴直・床奴・上直・住込み女中などという奴婢を置いていた。」と記されている[13]

戦後、北朝鮮では「政治犯強制収容所」が出現し、実質的に奴隷制度が再現されている。また、ハフィントンポストによると、多数の脱北女性が中国で農村部や風俗店に人身売買されている[1]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 建安七子のひとり。
^ 私奴婢の一つ。寺封とともに寺を維持するための財産とされた。
^ 子供の父親は偽れるため、母親が良民などの場合は回避された。
^ ??。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「丘」は服従の意。史は召史の意味。[要出典]

出典^ a b c “コラム アンニョンハシムニカ! 北東アジアの奴隷(奴婢) 大宅京平”. ハフポスト (2016年8月25日). 2019年3月22日閲覧。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:34 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef