女性差別(じょせいさべつ)とは、女性に対する性差別である。男尊女卑(だんそんじょひ)とも呼ばれる。対義語は男性差別という。 日本は、男女格差が世界で最も大きい国の一つとされ、世界経済フォーラムが世界男女格差レポートにて公表しているジェンダー・ギャップ指数ではG7で最下位、G20でサウジアラビア、トルコに次いでワースト3位である[1]。ただし、これをもって男尊女卑であると喧伝するのは日本の女性の幸福度が男性を上回る程度が世界最高峰にあることを看過しており、ミスリーディングだとの批判もある[2]。 日本の女性労働者の待遇改善問題は、裁判所による政策形成の歴史とも重なる。すなわち、行政府が男女の雇用機会均等に向けて動かない中で、裁判所が判例を通じて性差別を是正していった事例として挙げられる[3] 。 司法による格差是正の動きは、1950年代後半から1960年代に始まった。当時、労働に関する法令としては労働基準法があったが、労働基準法は賃金について女性を理由とした差別を禁止していたのみであり、採用や解雇(例えば、当時は女性の早期退職は社会では当然の慣行となっていた)といった、その他の労働面における差別を訴える法律が存在しなかった。そして、賃金についても、企業は女性を男性と異なる職に就けることによって、差別化を行っていた[3]。 こうした状況の中、まず日本国憲法第14条(法の下の平等)を理由とした格差是正が試みられた。しかし、私人間効力がない(私人間には憲法が直接は適用されない)ことを理由にこの動きは失敗した[3]。ところが、裁判所は1966年の住友セメント事件で民法90条(公序良俗違反)(私人間効力の間接効力を参照)を利用することによってこの状況を打破した[3]。この動きは全国に広がり、各地の裁判所で民法90条を使用して女性の早期退職、結婚退職、出産退職が是正されていった[3]。国会で男女雇用機会均等法を制定したのは、1985年のことであった[3]。 女性労働問題については、パート労働者の待遇改善の歴史とも重なる。非正規雇用を参照されたい[4]。 以下では、日本における事例を挙げる。なお、戦前においては、参政権や教育を受ける権利も議論となっていた。戦後においても、差別を助長する服装指導、頭髪指導を実施している中学校や高等学校も存在する。女性参政権、男女共学、性差別なども参照。
事例
日本
最高裁が男女別定年制を無効とした判例
伊豆シャボテン公園事件昭和50年8月29日
日産自動車事件昭和56年3月24日
放射線影響研究所事件平成2年5月28日
1981年(昭和56年)3月24日、那覇地裁においてトートーメー継承問題(女性に財産相続権が認められない慣習)を違憲とする判決が下る。
1985年(昭和60年)6月第102回国会外務委員会において、外務政務次官森山眞弓が小金井カントリー倶楽部でのコンペ参加を女性であるという理由で断られた件について、大変に遺憾である旨の答弁を行った。また、当時の外務大臣安倍晋太郎はこの事実を直前に知り、強い遺憾の意を示すために同コンペの参加を見送ったと述べている[5]。また、この年の第102回国会において女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約締結を承認している。
1995年(平成7年)8月、住友金属工業の女性社員4人が昇給・昇進で差別されたとして訴訟を起こす。
やがて訴訟は他の住友グループ各社にも広がる。内訳は住友電気工業(2人)住友化学(3人)住友生命(12人)。
10年以上続いた一連の裁判は、2006年4月の住友金属工業と原告との和解をもって終止符が打たれた。
日本では、夫婦は婚姻時に同姓とする民法の規定があり選択的夫婦別姓制度は導入されていないが、これは日本国憲法に定められた男女同権に反するものであり違憲ではないかとの議論がある。民法の規定は、夫又は妻の氏のいずれを称するかを夫婦の選択にゆだねているものの、実際には妻の側が改氏する割合が全体の96.1%[6] であり、これは女性の間接差別に当たり、男女平等に反する[7][8][9][10][11][12]、との主張もある。また、日本を含む130カ国の賛成で国連で1979年に採択された「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」では選択的夫婦別氏の導入が要求されている[7][8][11][12][13][14][15]。