震災後の区画整理事業により町名が新設され、住所変更が行われた(2019年12月28日実施)。body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%} 女川町西方背後にある黒森山の麓にあたる奥地に安野平(あのたいら)という所から流れ出る渓流がある。伝承によれば、平安時代に起こった前九年の役の際に安倍貞任の軍勢が隣村の稲井(現在の石巻市稲井)の館に寄り、源氏方の軍と戦ったとき、一族の婦女子を安全地帯であった安野平に避難させた。このことから、ここから流れ落ちる小川を「女川」と呼ぶようになったという[9][10]。 江戸時代は仙台藩領だった。仙台藩では領内を南方、北方、中奥、奥の四つに区分していて、女川がある牡鹿郡は中奥に属した。牡鹿郡は陸方と浜方に区分され、さらに浜方はその内部で狐崎組、十八成組、女川組に分けられ、それぞれに大肝入が置かれた[9]。 1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行された際、藩政時代の女川組20浜の各村が合併して女川村となった。村名に女川が選ばれたのは、女川浜が藩政時代に女川組の大肝入の居住地であったこと、全地域が女川組としてまとめられていたこと、また地の利を得ていたことに由来するのだろうと『女川町誌』は記している[9]。1926年(大正15年)4月1日に町制へ移行し、女川町となった。 女川湾は比較的水深が深く、宮城県に寄港する大型船舶の碇泊地になることが多かった[11]。塩釜港や石巻港が浚渫整備される以前は、日本海軍の艦船が女川湾に停泊しており、女川湾の商港の整備に当たって軍港誘致の請願が行われた[11]。第二次世界大戦中には、東北地方太平洋岸の防空・対潜任務のため、横須賀鎮守府隷下の「女川防備隊」がここに設置され、艦艇が配置された[12]。また、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月9日には連合国軍機による空襲を受けて海軍艦艇7隻が撃沈された[13][12]。詳細は「女川湾」を参照
旭が丘(あさひがおか)
飯子浜(いいごはま)
石浜(いしはま)
出島(いずしま)
伊勢(いせ)
市場通り(いちばどおり)
内山(うちやま)
浦宿浜(うらしゅくはま)
江島(えのしま)
尾浦(おうら)
大石原浜(おおいしはら)
大原(おおはら)
大道(おおみち)
女川(おながわ)
女川浜(おながわはま)
御前浜(おんまえはま)
海岸通り(かいがんどおり)
桐ケ崎(きりがさき)
黄金(こがね)
小乗(このり)
小乗浜(このりはま)
桜ケ丘(さくらがおか)
指ケ浜(さしのはま)
清水(しみず)
高白浜(たかしろはま)
竹浦(たけのうら)
塚浜(つかはま)
野々浜(ののはま)
針浜(はりのはま)
宮ケ崎(みやがさき)
横浦(よこうら)
鷲神(わしのかみ)
鷲神浜(わしのかみはま)
cf. ≪外部リンク≫“ ⇒女川町(牡鹿郡)(宮城県)の住所・地名の読み仮名”. 市町村.com. 2020年10月18日閲覧。
歴史
年表1975年度の女川町の市街地国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
1939年(昭和14年)10月7日:国鉄(JRの前身)石巻線で女川駅が開業。
1945年(昭和20年)8月9日:第二次世界大戦中、連合国軍機による空襲があり、大日本帝国海軍艦艇7隻が女川湾で撃沈される[13]。この戦闘で亡くなったカナダ海軍のパイロットが第二次世界大戦における最後のカナダ人戦死者となった[14]。
1947年(昭和22年)8月6日:昭和天皇の戦後巡幸。漁市場、女川港などに行幸[15]。