津波で3階建ての町庁舎も冠水した[33]が、町長以下職員は間一髪屋上に避難して無事であった。女川原子力発電所は高台にあったため辛うじて津波の直撃を免れたものの、発電所を管理する宮城県原子力センターや原子力防災対策センター(双方とも2階建ての建物)は屋上まで冠水し、環境放射線監視システム[注釈 4]が壊滅。職員の多くも行方不明となったため、国や県に一時的に報告ができないという状態に陥った[37]。
女川湾から約100mのところにあった七十七銀行女川支店では高さ約10mの屋上に行員が避難したが津波に飲み込まれた[38]。
東北電力は女川原子力発電所の潮位計の記録を解析し、当施設が浸水高13mの津波に襲われていたことを、4月7日に公表した[39]。女川原発の敷地の標高は14.8mであるが、地震で約1m地盤沈下したことが分かっており、計算上、津波は敷地まで80cmの高さにまで迫っていたことが判明した[39]。実際、津波の飛沫の痕跡が敷地の外縁に残っていた[39]。なお、最大波から15分ほど後に発生した強い引き波のときには、海水面が下がりすぎて原子炉を冷却するための取水口が3- 5分の間むき出しになっていた可能性もあるという[39]。
町域にある鉄道駅のうちJR石巻線の女川駅は、土台だけを残して駅舎が流失したほか、駅に停車中であった列車や町営温泉の保存車両等が流されるなど、甚大な被害を受けた[34][40]。また、女川-石巻間では線路が損傷した[41]。
更に鉄筋コンクリート製のビル6棟が基礎部分ごと地面から抜けて横倒しになる被害も発生した。液状化現象で基礎が浮き上がった所を津波になぎ倒されたと思われる。世界的にも例の無い被害である事から、町では被害資料として保存する方針を固めている[42][43]。
3月12日:津波被害で損壊著しい町庁舎に代えて、女川町立第一中学校(現・女川中学校)の校舎2階に女川町災害対策本部が置かれる[24]。
3月23日:この時点で判明した人的被害は死者473人・行方不明者620人、物的被害はほとんど詳細不明[33]。
3月31日:女川町公式サイトのホームページが臨時の状態ながら回復する[44]。
4月21日:町の有志により、町内をエリアとする臨時災害放送局(FMラジオ 79.3MHz)「おながわさいがいエフエム」が開局し、女川町立第二小学校校庭に設置されたスタジオから24時間体制で放送を開始する[45]。
5月26日:この時点で判明した人的被害は死者476人・行方不明者567人・重軽傷者2人、物的被害は全壊3,021棟・半壊46棟・一部破損86棟[46]。
6月6日:この時点で判明した人的被害は死者488人・行方不明者454人[47]。
復興に際しては将来の津波被害に備えて、住宅は津波が遡上しにくい高台に、商業施設などを低地に整備する街づくりを進めている。日本の他地方同様、震災前から少子高齢化が進んでいたうえに、復興計画づくりや宅地造成に時間がかかり、町外へ転出した住民も多い。2018年3月15日付『日本経済新聞』朝刊によると、人口は約6600人で震災前と比べ約34%減少。企業や工場、商店といった事業所数は約360で震災直後(2012年)の約190より増えたが、震災前の約660(2009年)には及ばない[48]。
震災や復興に関連する施設
女川いのちの石碑
きぼうのかね商店街
女川コンテナ村商店街
シーパルピア女川[49]
マリンパル女川
ホテル・エルファロ
津波によってビルの屋上に横転した状態で打ち揚げられた自動車。2011年3月30日撮影(以下同じ)。
女川町内で行方不明者の捜索に当たるインドの捜索救助隊。
高台にある女川町立病院から女川駅方向を撮影しているが、震災時は撮影者の位置まで津波が押し寄せた。
避難場所に指定されていた女川町立病院も1階が浸水し、多数の医療機器が使用不可能となった。
津波で駅舎が流失した女川駅周辺。