女官
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また、上記以外に皇室費の内廷費をもって天皇家に直接雇用されている非公務員の「女官」に相当する職掌として以下のものがある。

女嬬(にょじゅ)…天皇、皇后の寝室、居間の清掃、皇后の衣服の補綴などを担当

雑仕(ざっし)…便所、浴室、玄関の清掃、皇后の衣服の洗濯などを担当

前近代の女官・女房がそうであったように、天皇の「お手つき」となる可能性があったことから、女官は御所に住み込みで仕え、独身であることが常識だったが、昭和天皇は即位後まもなく女官制度の改革を断行し、住み込み制は廃止され、自宅から通勤するのが原則となった。また既婚女性にも門戸が開かれた。

戦前の女官は、宮中内の事柄は親兄弟にも明かす事ははばかられ、外部には内実の情報が明かされる事は長い間なかったが、山川三千子(昭憲皇太后に仕えた皇后宮職の女官(権掌侍御雇)で子爵久世通章の長女)が、晩年になり『女官 明治宮中出仕の記』を1960(昭和35)年に出版し、初めて女官を通して見た明治期宮中の様子が語られた(2016(平成28)年に講談社学術文庫で再刊)[9]
朝鮮の女官

女官たちは内命婦に所属し、従九品の奏変宮(チュビョングン)から正五品の尚宮(サングン)までのいずれかの品階を受けて宮中において様々な職務に従事していた。国王の側室となった場合は正一品の嬪(ピン)から従四品の淑媛(スグォン)までの品階が与えられた。その他、品階を受けずに宮中の職務に従事する婢子(ピジャ)、ムスリ(朝鮮語版)、カクシム、房子(パンジャ)、医女(ウィニョ)などがおり、尚宮や内官、医官らの補助を担当した。女官たちは原則として身分、先祖、健康など、厳格な条件に基づいて選抜されたが、強制的な選出がなされたこともあり問題となった。顕宗治世下において良人両班中人・常民の3階級の総称)から女官を選ぶことをやめるべきだとの発言がなされた記録がある[10]。その後景宗治世下では良人からの女官の選抜を禁止する命令が出された[11]他、英祖治世下の1746年には良人の女性を女官にしたことが発覚した場合、60回の杖罪と1年間の徒罪に処せられることになった[12]:女官は各官衙に属する奴婢のなかから選抜せよ。欠員が出てから補充するようにせよ。寺院所有の奴婢は、国王の特命がなければ選抜してはならない。良民身分の女性は、選考の対象にしてはならない。良民身分の女性や寺院所有の奴婢を推薦した者・連れ込んだ者は、杖で60回打ったうえで1年間禁固する。なお、宗親府の奴婢である侍女と議政府の奴婢である別監は、選考対象から除く。 ? 続大典 刑典 公賤


しかし、国王正祖の生母恵慶宮洪氏の自叙伝である閑中録(朝鮮語版)によると、彼女が許可なく良人の女性を女官に採用したことで、夫の思悼世子が英祖から叱責されたと記録されている。純祖が即位した1801年には官婢制度が廃止され、約3万7千人もの官婢たちが解放されて良人に組み込まれた[13]ため、続大典内の条項を保証することがより困難となった。高宗純宗に仕えたある尚宮は、「女官の中でも至密、針房、繍房については殆どが中人(良人の中で両班に次ぐ階級)出身だった」という証言を残している[14]

女官たちは幼少時に宮中に入り、宮廷のしきたりや礼儀作法、ハングル小学大学などの様々な教養を15年の見習い期間の間に学んだ。
ヨーロッパの女官

ヨーロッパの宮廷において、女官とは、王妃女王)や王女その他高貴な女性に仕えて身辺の用務に応じる個人的な補助者のことをいう。女官は通常、主人よりも低い階級ながらも彼女自身が貴族であり、召使ではない。女官の役割はその宮廷によってさまざまである。
ルネッサンス期のイングランド

テューダー朝イングランドでは、女官は4つの別々のシステムに分けられていた。「グレート・レディ(great lady)」、「レディ・オブ・ザ・プライヴィ・チェンバー(lady of the privy chamber、私室付女官)」、「メイド・オブ・オナー(en:Maid of Honour)」、そして「チェンバラー(chamberer)」である。私室付女官は王妃(女王)と最も親しい関係にあったが、大部分の女官はメイド・オブ・オナーだった。女官には、王妃の最も信用できる存在であるゆえに、縁戚者が任命されることが多かった。マーガレット・リーはアン・ブーリンの私室付女官であり、また同じくエリザベス・シーモアも王妃ジェーン・シーモアの私室付女官だった。テューダー朝の宮廷における女官の役割は、王族のお相手をし、どこであろうと王妃のお供をすることであった。テューダー朝の王妃は、誰が自分の女官になるかについてかなりの発言権を持っていた。
フランス

ブルボン朝の後期には、女官はしばしばルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュルイ15世の王妃マリー・レクザンスカの、名目上の、距離を置いた同伴者の役割を担っていた。ルイ16世の王妃マリー・アントワネットには何人かのお気に入りの女官がおり、特にポリニャック伯爵夫人などは大きな影響力を持つとともに自ら巨大な富も得た。
現代イギリス

今日のイギリス王室では、女王または王妃の世話をする者は「レディ・オブ・ザ・ベッドチェンバー(Lady of the Bedchamber)」または「ウーマン・オブ・ザ・ベッドチェンバー(Woman of the Bedchamber)」といい、上席の女官は「ミストレス・オブ・ザ・ローブズ(Mistress of the Robes)」という。ウーマン・オブ・ザ・ベッドチェンバーは常時控えているが、ミストレス・オブ・ザ・ローブズとレディ・オブ・ザ・ベッドチェンバーは通常は冠婚葬祭の場などにのみ参列を求められる。女王(王妃)以外の王室の女性メンバーに付き添う女官は「レディ・イン・ウェイティング(Lady-in-Waiting)」という。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 角田文衛のように「にょうかん」が実際の宮廷で用いられていた証拠は無いとしてこの区別を否定する考え方もある。

出典^ 『平安時代史事典』「女官」。


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