前近代の女官・女房がそうであったように、天皇の「お手つき」となる可能性があったことから、女官は御所に住み込みで仕え、独身であることが常識だったが、昭和天皇は即位後まもなく女官制度の改革を断行し、住み込み制は廃止され、自宅から通勤するのが原則となった。また既婚女性にも門戸が開かれた。
戦前の女官は、宮中内の事柄は親兄弟にも明かす事ははばかられ、外部には内実の情報が明かされる事は長い間なかったが、山川三千子(昭憲皇太后に仕えた皇后宮職の女官(権掌侍御雇)で子爵久世通章の長女)が、晩年になり『女官 明治宮中出仕の記』を1960(昭和35)年に出版し、初めて女官を通して見た明治期宮中の様子が語られた(2016(平成28)年に講談社学術文庫で再刊)[9]。 女官たちは内命婦
朝鮮の女官
しかし、国王正祖の生母恵慶宮洪氏の自叙伝である閑中録(朝鮮語版)によると、彼女が許可なく良人の女性を女官に採用したことで、夫の思悼世子が英祖から叱責されたと記録されている。純祖が即位した1801年には官婢制度が廃止され、約3万7千人もの官婢たちが解放されて良人に組み込まれた[13]ため、続大典内の条項を保証することがより困難となった。高宗・純宗に仕えたある尚宮は、「女官の中でも至密、針房、繍房については殆どが中人(良人の中で両班に次ぐ階級)出身だった」という証言を残している[14]。
女官たちは幼少時に宮中に入り、宮廷のしきたりや礼儀作法、ハングル、小学や大学などの様々な教養を15年の見習い期間の間に学んだ。 ヨーロッパの宮廷において、女官とは、王妃(女王)や王女その他高貴な女性に仕えて身辺の用務に応じる個人的な補助者のことをいう。女官は通常、主人よりも低い階級ながらも彼女自身が貴族であり、召使ではない。女官の役割はその宮廷によってさまざまである。 テューダー朝のイングランドでは、女官は4つの別々のシステムに分けられていた。「グレート・レディ(great lady)」、「レディ・オブ・ザ・プライヴィ・チェンバー(lady of the privy chamber、私室付女官)」、「メイド・オブ・オナー(en:Maid of Honour ブルボン朝の後期には、女官はしばしばルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュやルイ15世の王妃マリー・レクザンスカの、名目上の、距離を置いた同伴者の役割を担っていた。ルイ16世の王妃マリー・アントワネットには何人かのお気に入りの女官がおり、特にポリニャック伯爵夫人などは大きな影響力を持つとともに自ら巨大な富も得た。 今日のイギリス王室では、女王または王妃の世話をする者は「レディ・オブ・ザ・ベッドチェンバー(Lady of the Bedchamber)」または「ウーマン・オブ・ザ・ベッドチェンバー(Woman of the Bedchamber)」といい、上席の女官は「ミストレス・オブ・ザ・ローブズ(Mistress of the Robes)」という。ウーマン・オブ・ザ・ベッドチェンバーは常時控えているが、ミストレス・オブ・ザ・ローブズとレディ・オブ・ザ・ベッドチェンバーは通常は冠婚葬祭の場などにのみ参列を求められる。女王(王妃)以外の王室の女性メンバーに付き添う女官は「レディ・イン・ウェイティング(Lady-in-Waiting)」という。
ヨーロッパの女官
ルネッサンス期のイングランド
フランス
現代イギリス
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 角田文衛のように「にょうかん」が実際の宮廷で用いられていた証拠は無いとしてこの区別を否定する考え方もある。
出典^ 『平安時代史事典』「女官」。