女子美術大学
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キャンパスがある杉並区[2]、神奈川県の相模原市[3]のほか同県横浜市[4]、千葉県の佐倉市[5]、山梨県韮崎市[6]、東京理科大学[7]、沖縄県立芸術大学[8]、 東京工業大学[9]、学校法人北里研究所[10]、学校法人順天堂[11][12]、水産総合研究センター[13]などと、社会実践的アート活動を展開している。連携機関内には女子美術大学の学生や教員の作品が展示・設置されている。
建学の精神(校訓・理念・学是)
芸術による女性の自立
女性の社会的地位向上
女子芸術教育者の育成
沿革
1900年(明治33年) - 私立女子美術学校設立。発起人は横井玉子、藤田文蔵他2名。藤田は工部美術学校卒の彫刻家で、東京美術学校の教授であり、牛込教会の長老でもあった[14]。八咫鏡の中央に「美」を配した校章も藤田が考案した[14]。
1901年 - 4月1日に東京市本郷区本郷弓町(現在の東京都文京区本郷)の弓町校地で開校し、校舎は隣接の前田利鬯子爵邸内の桜林を開拓して新設された[14]。日本画、西洋画、彫刻、刺繍、蒔絵、編物、造花、裁縫の8学科に、それぞれ本科普通科、本科高等科、選科普通科、選科高等科を設け、初代校長に藤田文蔵、教員には島田友春、岩村透 、紀淑雄、尺秀三郎、磯野吉雄らが就いたが、生徒不足により資金難となり、さらに発起人2名の不正が発覚して辞職する騒ぎが起こる[14][15]。経営難から順天堂院長佐藤進 (軍医)の妻佐藤志津(佐藤尚中の娘)の後援を受け、横井と藤田が発起人を辞任して権利を譲り、佐藤が校主となった[14]。
1902年 ‐ 島田友春の代わりに河鍋暁翠が日本画教授に就任(島田は翌年私立日本女子美術学校を設立)。
1903年 ‐ 横井玉子死去。
1904年 ‐ 佐藤志津、第2代校長に就任。
1908年 - 弓町校地が火災により焼失。
1909年 - 本郷菊坂町に菊坂校地が落成し、弓町より移転。
1915年(大正4年) - 私立女子美術学校付属高等女学校開校。
1916年 - 私立女子美術学校付属高等女学校を私立佐藤高等女学校へ改称。
1917年 - 設置母体を財団法人私立女子美術学校へ改称(同年2月)。私立女子美術学校同窓会(現・女子美術大学同窓会)を設立。
1919年 - 私立女子美術学校を女子美術学校へ改称。佐藤志津死去し、夫の佐藤進が第3代校長に就任。
1928年(昭和3年) - 菊坂校舎の老朽化と狭隘化により新校地を東京府豊多摩郡和田堀町和田に取得(同年6月)[16][17]。
1929年 - 旧制専門学校に昇格。女子美術専門学校へ改称。
1935年 - 杉並校地が落成し、女子美術専門学校が和田本町(現在の和田)へ移転[16]。
1945年 - 太平洋戦争下の空襲により菊坂校地が全焼。私立佐藤高等女学校が杉並校地へ移転[16]。
1947年 - 学制改革により新制佐藤中学校開設。
1948年 - 新制佐藤高等学校発足。
1949年 - 女子美術大学発足。
1950年 - 財団法人女子美術大学を学校法人女子美術大学へ組織変更(同年3月)。女子美術大学短期大学部を併設し服飾科を設置(同年4月)。
1951年 - 佐藤高等学校・中学校を女子美術大学付属高等学校・中学校へ改称。
1960年 - 創立60周年記念祭挙行。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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