このような戦法は、異民族間の戦争においては現代でも見られることであるが、騎馬武者の個人戦をベースとした京武者の感覚には無い。出羽国の吉彦秀武から出された作戦であることには真実みがある。 金沢の柵での戦いの終盤で冬になり、柵を包囲する義家軍も「大雪に遭い、官軍、戦うに利をうしない、軍兵多くは寒さに死し飢えて死す、或いは馬肉を切りて食し・・・」(康富記)という、前年の沼柵での悲惨な敗北を思い出し、自分が死んだあと、国府(多賀城)に残る妻子が、なんとか京へ帰れるようにと、手紙を書き、旅賃に変えられそうなものを送り届けるシーンがある。城をまきて秋より冬にをよびぬ。又さむくつめたくなりてみなこゞへて、をのをのかなしみていふやう、去年のごとくに大雪ふらん事、すでに今日明日の事なり。雪にあひなば、こゞへ死なん事うたがふべからず。妻子どもみな国府にあり。をのをのいかでか京へのぼるべきといひて泣々文ども書て、われらは一ぢやう雪にをぼれて死なんとす。是をうりて粮料として、いかにもして京へかへり上るべしと云て、我きたるきせながをぬぎ、乗馬どもを国府へやる。 この一節の中から、彼らが京から義家に着いてきたことが解る。それも5年から6年の任国統治の為に、最初から引き連れてきた行政のスタッフ、期間契約社員としての郎党(館の者共)と見られる。20世紀第三四半期の学説では、義家は多くの関東の武士を引き連れて、後三年の役を戦ったとされる。しかし、農閑期の一時的な出稼ぎ戦争に、妻子を伴ってくるようなことはあり得ない。また、その妻子の帰る場所は京ではない。 更に、前九年の役でも源頼義に、関東の武士が沢山従ったが、それは朝廷の命令があったからである。今回は朝廷の命令なしに、義家個人の力で関東の武士を大勢動員した。この間に、武士団の大きな成長、源氏の武士の棟梁への上昇があった、と見られてきた。安田元久も『源義家』の中でこう書いている。もちろんこの時代に、義家を首長とする完全な私的武士団が組織されていたものとは考えられない、一つの戦闘組織としての、大規模な武士団が形成されるのは、12世紀半ば頃であり、義家の時代には、彼を頂点として、その下にいくつかの独立した武士団が、ヒエラルヒッシュに統属されるという形は考えられない。しかし、この戦役を通じて、東国の在地武士と、義家の間に、私的主従関係が馴致され、さらにその関係が強化されていったことは否定できないのである。 以下に『奥州後三年記』における ⇒源義家の郎党 を個々に記す。 兵藤大夫正経 後三年の役の際に、正経は源義家軍の先手の将として戦功をたてたので、三河国渥美郡一円を賜わり、子孫代々この地を領して住んだという。それから約100年後の治承4年(1180年)、正経から5代目に当たる刑部太夫正職は、源頼政の軍に従い平家軍と戦って宇治の合戦で戦死した。正職の孫に当たる治部太夫正之は文治元年(1185年、正しくは寿永3年(1184年)か)、源範頼の軍に従い生田(神戸市)で戦死したという。子孫は肥前国佐保村(現川上村佐保)に移住した[6]。 参河国の住人。兵藤大夫正経の婿で、ともに行動していた。兼仗の「兼」は正確には「人べんに兼」であり、武官の官職であった。例えば鎮守府将軍の場合は、将軍判授(将軍が選んで朝廷に申請)の従者として兼仗を置くことが出来た(伴助兼の項も参照のこと)。 鎌倉権五郎景政の系図は諸説あってはっきりしない。安田元久は、『陸奥話記』の、藤原景通こそ鎌倉景通だとし、その弟、鎌倉権守景成が平良正の子、致成 藤原景通は美濃国を本拠とした京武者で加賀介となり、そこからその子孫は加藤氏を名乗るようになる。権五郎景政はこのとき16歳。自分の政治的判断で従軍する立場ではなかった。仮に安田の想定通りであれば、京における郎党(同盟軍)の子弟という、京武者コネクションでの動員の可能性が高くなる。 しかし、野口実、元木泰雄両名は、『今昔物語集』巻第二十五第十「依頼信言平貞道切人頭語」に出てくる源頼光の郎党、平貞通(道)(碓井貞光)の孫と推定している。平貞通は、京で源頼光に仕えながら、関東との間を行き来している。 後三年合戦から約20年後の長治年間(1104年 - 1106年)、鎌倉権五郎景政は相模国・鵠沼郷一帯を、先祖伝来の地として、多数の浮浪人を集めて開発を始め、それを伊勢神宮に寄進しようと国衙に申請した。そして、永久5年(1107年)10月23日にその承認を得て、「大庭御厨」を成立させる。「御厨」(みくりや)とは天皇家や伊勢神宮の荘園を意味する。景正は、「供祭上分米」を伊勢神宮に備進する代わりに、子孫に下司職を相伝する権限を手にする(寄進系荘園
義家の郎党の構成
義家の郎党の概要『後三年合戦絵詞』剛の者と臆病の者
兵藤大夫正経
伴次郎兼仗助兼
鎌倉の権五郎景正(景政)相模の国の住人鎌倉の権五郎景正といふ者あり。先祖より聞えたかきつはものなり。年わづかに十六歳にして大軍の前にありて命をすてヽたヽかう間に、征矢にて右の目を射させつ。首を射つらぬきてかぶとの鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて当の矢を射て敵を射とりつ。さてのちしりぞき帰りてかぶとをぬぎて、景正手負にたりとてのけざまにふしぬ。
三浦の平太郎為次同国のつはもの三浦の平太為次といふものあり。これも聞えたかき者なり。つらぬきをはきながら景正が顔をふまへて矢をぬかんとす。景正ふしながら刀をぬきて、為次がくさずりをとらへてあげざまにつかんとす。為次おどろきて、こはいかに、などかくはするぞといふ。景正がいふやう、弓箭にあたりて死するはつはものののぞむところなり。いかでか生ながら足にてつらをふまるゝ事にあらん。しかじ汝をかたきとしてわれ爰にて死なんといふ。為次舌をまきていふ事なし。膝をかヾめ顔ををさへて矢をぬきつ。