奥山和由
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ところがアルバイト経験があった『キネマ旬報』の黒井和男に呼び出され、「お前の親父から変な動きをするなと伝えられている」と釘を刺された[3]。奥山は「親から勘当されて松竹に行けるわけない。それで東映に入るつもりです」と言ったら、「親父さんがそんなことをするぐらいなら松竹に入れと言ってるぞ」と言われ、深作から甘い世界じゃないよと諭されていたこともり、熟考の末、大学卒業後の1979年7月、松竹に入社した[3]
松竹入社

経理部を経て興業部にいたとき、 升本喜年プロデューサーに出会う[5]。升本はメロドラマや文芸映画、喜劇映画と言った健全路線にある松竹では珍しく、安藤昇と組んで『血と掟』や『男の顔は履歴書』といったヤクザ映画を作っていた松竹内では異色のプロデューサーで、当時はテレビ部にいたが、升本の口利きでテレビ部に移り[5]、『火曜サスペンス劇場』などを手掛けた[5]大船撮影所が傾き、独立採算で切り離されて松竹撮影所製作部が升本と奥山の二人で発足され[6]1981年撮影所付きの映画プロデューサーとなる[5]

1982年 瀬戸内シージャック事件を描いた『凶弾』(監督・村川透)で映画製作に初めて携わり、その後多数の映画をプロデュース[2][7]。『海燕ジョーの奇跡』(監督・藤田敏八)など、反大船色の強い青春アクション映画が主流。特に異業種との共同製作が多く、純然たる松竹資本の映画はほとんどない。

1987年 東急グループ三井物産と製作した『ハチ公物語』(監督・神山征二郎)が、興収50億円の記録的大ヒット。

1989年 映画ファンド第1号となる『226』(監督・五社英雄)公開。

1992年 テレビ朝日との『遠き落日』等、大ヒット作品多数。

35歳で取締役に就任。

1990年代前半は北野武(『その男、凶暴につき』)・竹中直人(『無能の人』)・坂東玉三郎(『外科室』)・秋元康(『グッバイ・ママ』)などを新人映画監督として多くデビューさせる等、映画界の寵児としてもてはやされた。

1994年 江戸川乱歩生誕100周年記念作品『RAMPO』で映画初監督。

1997年うなぎ』(監督・今村昌平)が第50回カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞。

1998年1月19日 取締役会に於ける大谷信義の緊急動議により、2分間の決議で松竹取締役を解任。

1998年 製作会社「チームオクヤマ」を設立[8]

1999年 浅野忠信主演『地雷を踏んだらサヨウナラ』(監督・五十嵐匠)で、ロングラン記録を樹立。

2001年 大竹しのぶ時任三郎主演、 浅田次郎原作『天国までの百マイル』公開。

2008年 神山征二郎監督と久々のコンビによる『ラストゲーム 最後の早慶戦』、亀山千広とのタッグによる『TOKYO JOE マフィアを売った男』公開。

2010年 御徒町凧監督、森山直太朗音楽監督の『真幸くあらば』公開。

2011年 金子修介監督、内田有紀成宮寛貴主演『ばかもの』公開。

2012年 吉本興業との業務提携により、映画制作センターエグゼクティブプロデューサー及び沖縄国際映画祭のエグゼクティブディレクターとなる。

2013年 新人クリエーターを発掘する『クリエーターズファクトリー』を発足(第1回受賞者は杉野希妃)。

2014年 第1回京都国際映画祭を、ゼネラルプロデューサーとして開催。吉本興業が設立した映画会社である株式会社KATSU-doの代表取締役に就任[1]

2015年 竹野内豊松雪泰子主演『at Home アットホーム』、二階堂ふみ長谷川博己主演『この国の空』(終戦70周年記念映画)など、年間でプロデュース作品が10本を超える。


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