奏任官
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また、1873年(明治6年)6月14日に中尉・少尉は奏任であることを理由に、官等表にこだわらず諸判任官の上席とした[26]

陸海軍資のためとして1874年(明治7年)から家禄税[27] [注釈 2]とともに官禄税[28]を設けており、陸海軍武官等を除いて[29]奏任官月俸100円以上は20分の1の割合とした[注釈 3]
1877年(明治10年)1月太政官制・官等17等

1877年(明治10年)1月に官制の簡素化を図り、各省の諸寮及び大少丞以下を廃止して奏任官の官名を書記官とし、四等官は大書記官とし、五等官は権大書記官とし、六等官は少書記官とし、七等官は権少書記官とした[30]。このころから陸海軍の中尉・少尉等を先例として他の省や大審院にも八等・九等の奏任官を置き始め、司法省は奏任の判事・検事を四等官相当から九等官相当までとし[31]内務省警視局の大警部は八等、権大警部は九等として以上を奏任とした[32]

このときに勅任官以上の禄税をすべて2割に増加しており[30] [注釈 4]、奏任官の官禄税は従前の通りとしたが[33]、六等以上の奏任文官の月俸は従前の1等下に、七等の奏任文官の月俸は従前の七等と八等の間にそれぞれ減額して[22] [34]、等級改定後の八等の文官の月俸は従前の八等と九等の間の額とし、九等は従前と同額とした[22] [34]

1878年(明治11年)12月に官禄税を廃止して奏任官の俸給を元の水準に戻した[35]。ただし、八等の月俸に上等給・下等給を設けて、上等給は明治10年改定の七等と明治10年改定前の八等の間の額とし、下等給は明治10年改定の八等の額とした[22] [34] [35]

1883年(明治16年)1月4日に叙勲条例を定め、奏任官の初叙は勲六等とし、奏任官は勲三等まで進むことができるが、ただし七等官並びに七等相当官以下は勲三等に進むことができないとした[36]

1885年(明治18年)7月28日に叙勲条例を改正し、奏任官の初叙は勲六等とし、奏任官は勲三等まで進むことができるが、ただし六・七等官並びにその相当官は勲三等に進むことができず、八・九等官並びにその相当官は勲四等に進むことができないとした[37]
高等官としての奏任官
1886年(明治19年)3月高等官官等俸給令・奏任6等

1885年(明治18年)12月22日に内閣職権を定めて太政官制から内閣制に転換した後、1886年(明治19年)2月26日の各省官制通則(明治19年勅令第2号)を定め各省大臣は所部の官吏を統督し奏任官以上の採用・離職は内閣総理大臣を経てこれを上奏するとし、各省大臣は閣議の後に裁可を経るのでなければ定限の他新たに勅奏任官を増加することはできないとした[38]秘書官・書記官・局長参事官・局次長は奏任とし、書記官は總務局の中の各課の長を兼ねることができた[39] [注釈 5]。また、試補は奏任に准じた[42]。なお、局の中の各課に課長1人を置き判任官を以てこれに充てるところ、各省の中で特に奏任官を以て課長を兼ねさせるものは各省の部でこれを定めた[42]

同年3月12日に高等官官等俸給令(明治19年勅令第6号)を定めて高等官を勅任官と奏任官に分け、奏任官を6等に分けた[43]

奏任官の任官は内閣総理大臣がこれを奏薦し、各省に属するものは内閣総理大臣を経由して主任の大臣がこれを奏薦するとした[43]。奏任官の辞令書は内閣の印を押し内閣総理大臣が宣行するとした[43]。なお、このときの内閣及び各省の中の局長は奏任一等または二等とし局次長は現任局長の次等以下としていた[43]

太政官制の下では勅任官・奏任官・判任官は同じ官等の枠組みの中にこれを充てており、八等・九等は奏任と判任が混在して[25]、席次は官等に拘らず奏任官を上とする[26]など複雑化していたところ、このとき高等官官等俸給令(明治19年勅令第6号)[43]と判任官官等俸給令(明治9年勅令第36号)[44]を別に定めることで、高等官と判任官は別の官等の枠組みをそれぞれ用いることになった。


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