奉天会戦
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前哨戦(2月21?28日)2月23日までの軍隊の位置、日本陸軍は赤、ロシア軍は緑色。

ロシア側は、当初日本側左翼(第二軍、特に秋山支隊が防衛する黒溝台付近)に対する攻勢を企図していたが、2月21日、それよりわずかに早く日本軍最右翼の鴨緑江軍満洲軍揮下)が陽動のために進軍を開始し、清河城にこもるロシア軍を攻撃して24日に清河城を攻め落とした。しかし鴨緑江軍は、乃木第三軍より編入された四国善通寺第11師団と後備第1師団によって編成されており、このうち第11師団は現役兵師団ではあったが旅順攻囲戦によって現役兵を大量に失い、応召兵によって補充されていたため戦力的には問題があった。このため、日本軍得意の夜襲をかけても逆にロシア軍から夜襲を受けるなど、開戦時の日本軍に比べると攻撃に精彩を欠いていた。鴨緑江軍は何とか清河城支隊を撃退したが、クロパトキンが派遣した予備兵力に遮られ、膠着状態に陥った。第一軍も攻撃を開始し、27日に前哨基地を落として一定の戦果をあげた。
包囲作戦開始(3月1日?5日)両軍は満洲の馬賊を積極的に利用した戦闘中のロシア軍砲兵

主導権を握ったと判断した日本軍は、3月1日を期して奉天に対する包囲攻撃を開始した。作戦当初、日本軍は陽動として最左翼の乃木希典の第三軍・秋山支隊によってロシア軍右翼を攻撃させ、鴨緑江軍(ロシア軍左翼を攻撃中)と連動させることによってロシア軍の両翼を圧迫し、その両翼に援軍を出して手薄になるはずの正面に対して、大規模な攻勢を展開する意図を持っていた。秋山支隊がビルゲル支隊を破り、両翼で第三軍・鴨緑江軍が戦況を進展させている状況になったが、奉天正面で激しい攻撃を行ったにもかかわらず、進展が見られないばかりかロシア軍に撃退されてしまう状況が続いていた。これは、カノン砲28サンチ榴弾砲[注釈 1]による準備砲撃が、満洲の厳寒によって地面が凍っていたため砲弾が弾かれ、威力が半減していたことや、当時使われていた黒色火薬の威力の不足により、ロシア軍陣地を十分に叩くことができなかったことが原因であった。このため、満洲軍総司令部は作戦変更を行い、ロシア軍右翼の側面に回り込むために迂回を続ける第三軍に対し、さらに大きく奉天を迂回・包囲してロシア軍退路を遮断するとともに奉天を攻撃するよう命令した。

一方、ロシア軍の総司令官クロパトキン大将は旅順を陥落させた乃木の戦闘指揮能力とその揮下の第三軍を高く評価しており[注釈 2]、当初ロシア軍左翼を攻撃した鴨緑江軍を第三軍と勘違いして[注釈 3]、これに対して大量の予備軍を派遣した。ところが、本当の第三軍がロシア軍右翼を包囲するように動き出したと知って、ロシア軍左翼(鴨緑江軍正面)の応援に送ったこの予備軍をまたさらに右翼(乃木第三軍正面)へ転進させるという命令の変更を行った。このため、乃木軍はロシア軍の正面を受け持ちつつ奉天へ前進するという苦しい状況になり、連日のロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になっていた。

この時もし第三軍が奉天後方に回り込んで哈爾浜=奉天間の鉄道遮断に成功すれば、ロシア軍に対する物理的・精神的打撃は決定的であった可能性がある。また、クロパトキンは3万8千人ほどの第三軍を約10万人と過大に見積もっていたが、この誤断が生じたのは増援を重ねた10万のロシア軍に対して、乃木の第三軍が対等以上に戦ったからであるとされる。
ロシア軍の後退戦術と日本軍の決戦主義(3月6日?8日)

ロシア軍は奉天前面を攻撃する日本軍の第二軍、第四軍第一軍に対して反撃を続けていたが、3月6日になって奉天前面から徐々に計画的に後退を始めた。これはロシア軍正面を中央より第三軍のほうへ移す処置であった。このため、ロシア軍側面を攻撃していたはずの第三軍及び秋山支隊は敵正面に対することになってしまい、苦戦を強いられた。隣接する第二軍に対してもロシア軍が随時反撃を加え、日本軍の被害は徐々に増大していった。

両軍とも予備軍を前線に投入済みの中、日本軍の首脳部はあくまで全戦線での総力戦を指令し続け、ロシア軍の強固な防衛線を前に日本兵は文字通り死体の山を築いた。そうした状況が数日続くにおよび、遂には銃を捨てて逃走する日本兵の姿すら見られる状況に至り(大石橋の惨戦)、満洲の日本軍は絶体絶命の状況にあった。

児玉源太郎満洲軍参謀長はついに作戦全体の方針転換を決め、腹心の松川敏胤少将と図って、第四軍と第二軍に奉天への前進を指令した。
奉天会戦の結末(3月9日?10日)ロシア軍の後退

3月9日、ロシア軍の総帥クロパトキンは、第三軍によって退路を遮断される事を恐れて鉄嶺・哈爾浜方面への転進を指令した。これは満洲軍総司令部が全く予期しなかった出来事であった。奉天のロシア兵はまだ余力のある状態で、総撤退を開始したと思われたからである。ここまでの戦いで大きな損害を受けていた日本軍は3月10日、無人になった奉天に雪崩れ込んだ。第四軍はロシア軍を追撃し、2個師団に打撃を与えた。なお、この日は翌年に陸軍記念日と定められている。日本側の死傷者は約7万5000であった。

ロシア軍の損害もまた大きく(ロシア側の死傷者および捕虜約9万)、回復には秋頃までかかる状況であった。しかし、ロシア軍が受けた最も大きな損害は士気だったと言われる。鉄嶺までの暫時退却であったはずだが、その過程で軍隊秩序は失せ、略奪、上官への背命など、軍隊としての体をなさないまでに崩れたという。そのためクロパトキンは鉄嶺も捨てて、北へさらに退いた。すぐに日本軍が鉄嶺を占領している。哈爾浜に逃れたクロパトキンは罷免された。

会戦後は日本軍の能力は格段に落ちており、鉄嶺まで占領して補給線が伸びきってしまった日本軍としては、この辺が攻勢の限界であった。これは物資だけでなく人的補充という意味でも同じで、最後まで勇戦した第三軍は損耗率が4割から6割近くあったにもかかわらず[注釈 4]、その補充の予定すら立たない状況であった。特に第一線の将校、すなわち少尉から大尉程度の、前線指揮を執り兵の先頭を進む下級将校の欠乏は目を覆わんばかりで、開戦当初に配属されていた士官学校出身の現役将校はこれまでの会戦や旅順攻囲戦などによって大量に損耗していた。このため、大部分の将校が速成教育しか受けていない者や予備役から召集された者ばかりになり、前線での指揮も満足に取れない者が多く、またたった一日の行軍で体力を消耗してしまうような老齢の者も多く存在するような状態になっていた。これは奉天会戦開始前の鴨緑江軍所属の後備第1師団においてすでに顕著であり、同軍は奉天会戦後期にはほとんど活動できないまでになっていた。
奉天会戦の影響と日露講和への道戦闘終了後に行われた日本軍一師団の点呼奉天に入城する大山巌の絵葉書

奉天を制圧したことにより、会戦の勝利は日本側に帰したとも言えなくもないが、ロシア軍にとって奉天失陥は「戦略的撤退」であった。100年前のナポレオン戦争でもロシア軍が採用した伝統的な戦法であり、欧米のマスコミも当初はこの撤退を「戦略的撤退である」と報じていた。さらにロシア軍と日本軍では補給能力に格段の差があった。だがクロパトキンが罷免されたことで結果的にロシア軍が自ら敗北を認めてしまった形となり、国際的にもそのように認知されることとなった。


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