平安時代後期は、清和源氏の源満仲の次男の源頼親(兄・源頼光/摂津源氏。弟・源頼信/河内源氏)の大和源氏の本拠地となった。なお、中近世の日本において大きな歴史的事件の舞台とはなっていないが、温暖で肥沃な盆地を抱える地域であるため、この地域の豪族はいずれも大きな力を持った。
一方、南部の険峻な山地には、その地の利を活かして反中央勢力(中でも反主流派の皇族)が居を定め、中央政府(京都の朝廷、および幕府)とにらみ合う時代が長く続いた。南北朝時代の後醍醐天皇の吉野朝廷(南朝)が有名である。吉野朝廷は地の利を生かしながら、また各地の武家勢力を糾合しながら60年にわたって抵抗し続けるが1392年に南北朝合一。しかしその後も活動を止めず、応仁の乱では山名持豊の推戴も受けた。
奈良時代に建立された藤原氏氏寺の興福寺・東大寺など南都寺院が大きな勢力を誇った。このため、鎌倉・室町の武家政権は大和に定まった守護を置けなかった。平氏が東大寺焼討ちなどを行って南都を制圧しようと試みたが、うまくいかなかった。
などが北大和地域に割拠し争ったが強力な支配勢力となりえず、細川氏や畠山氏・三好氏の後援を受けた赤沢朝経や木沢長政・松永久秀といった他国勢力の支配を受けた。16世紀末に戌亥脇党の筒井順慶が織田信長の力を背景に大和を概ね制する。また、一向宗の布教拠点として今井町が環濠城塞都市化して信長軍と闘ったが、武装放棄されたものの検断権を許され商工業を盛んにし自治都市として発展した。豊臣秀吉の時代、順慶亡き後筒井氏は伊賀国に転出し、代わって郡山城に大納言豊臣秀長が拠を構え、地域の再編と産業奨励に乗り出し大和は安定した。
江戸時代は奈良(奈良奉行)・五條(五條代官)・今井(惣年寄)を幕府が直轄支配し、郡山藩が15万石で最大石高(但し、津藩も山辺郡などに領有しており、津藩を含めた場合は津藩が最大石高)で、高取藩が2万5千石、丹羽国柏原へ移封したが元禄8年(1695年)まで宇陀市大宇陀に所在した松山藩が2万8千石で、小泉藩・柳生藩・柳本藩・芝村藩・櫛羅藩などは陣屋であった。また、交代寄合の平野家の田原本陣屋があった。
このうち大和南部の広大な山域は、五條代官所管轄の天領(幕府直轄地)となった。実質はあまりに広域のため十津川村の十津川郷士などをはじめ各地域(郷村)による自治を行った。また、あまり知られていないことであるが、五條代官の支配地・管轄はかなり広域で現在の和歌山県の一部も含んでいた。
明治維新以後1930年ごろの奈良県庁旧 JR奈良駅舎奈良ホテル
慶応4年/明治元年1月21日(1868年2月14日)、新政府は添上郡奈良に大和鎮台を設置。大和鎮撫総督府を経て、同年5月19日(7月8日)に奈良県(第1次)、7月29日(9月15日)に奈良府となり、大和国一円の幕府領、旗本領、寺社領を管轄した[9]。明治2年7月17日(1869年8月24日)奈良県に改称。同年に十津川郷を兵部省軍務官に(のち五條県に編入)、明治3年(1870年)に宇智郡・吉野郡および葛上郡・宇陀郡の一部を五條県にそれぞれ移管している。五條県分離当時の奈良県の管轄地域は、添上郡68村、添下郡8村、平群郡61村、広瀬郡12村、葛下郡34村、葛上郡31村、忍海郡8村、宇陀郡89村、式上郡21村、式下郡26村、十市郡38村、高市郡41村、山辺郡55村(いずれも郡域の一部)であった。
明治4年11月22日(1872年1月2日)に大和国10県が統合され、改めて奈良県が設置された(第1次府県統合)。ところが、この奈良県は1876年(明治9年)4月18日に堺県に編入されて廃止となった(第2次府県統合)。その堺県も1881年(明治14年)2月7日に大阪府に編入されて廃止となったが、この年の12月には今村勤三ら大和出身の大阪府会議員を中心に奈良県再設置運動が開始された。