※市制施行以前の市域の歴史については、奈良も参照 奈良市街地の西にはウワナベ古墳など5世紀の巨大古墳が築かれ、佐紀盾列古墳群を形成している。『和名抄』に見える大和国添上郡山村郷、楊生郷、八島郷、大岡郷、春日郷及び添下郡佐紀郷、鳥貝郷の地であった。 現在の市域周辺が日本史の舞台に登場するのは、710年に都が藤原京から平城京に遷ってからのことである。その後、何度か短期間の遷都があったものの長岡京に遷る784年まで、この地が日本の中心となっていた。長岡京への遷都後も、東大寺や薬師寺、興福寺などの仏教寺院勢力がこの地域に残り、南都と呼ばれた。 中世になってからも、興福寺が大和守護職に任じられるなど広大な荘園を有する仏教寺院勢力は依然として影響力を保持していた。むしろ大寺院の勢力は戦乱の時代においてこそ影響力が大きく、そのために何度か戦火に見舞われた。2度の大仏焼失事件(南都焼討と東大寺大仏殿の戦い)などはその象徴的な出来事といえる。しかし、室町時代から戦国時代にかけて、他国および近在の所領も含めて在地の大和武士団が実効的な支配を行うようになったために大寺院の勢力は衰えた。 江戸時代には江戸幕府の奈良奉行が設置されて天領として徳川家の直接支配地になった。江戸時代の寺町の雰囲気を残すのが奈良町(ならまち)である。また、現在の市域の南部は伊勢国の津藩の飛び地(古市町付近が藤堂家の領地)であった。同じく奈良市域の北東部は柳生藩の領地となっていた。 太平洋戦争中は同じ宗教都市である京都市と共に大規模な空襲は受けなかったため、21世紀の令和現在も多くの文化遺産が残されている。
古代
中世
近世17世紀初頭の奈良町絵図
近代
明治
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、添上郡奈良町[注釈 1]・奈良坂村・般若寺村・川上村・雑司村・水門村・春日野村・紀寺村・高畑村・京終村・肘塚村・木辻村・城戸村・油坂村・杉ヶ村・三条村・芝辻村・畠中村の区域をもって奈良町が発足。
1898年(明治31年)2月1日 - 添上郡奈良町が市制施行して奈良市となる。
1903年(明治36年)5月5日 - 市章を制定[9]。
大正
1923年(大正12年)4月1日 - 添上郡佐保村を編入。
近現代
昭和(戦前)
奈良觀光市街地圖、1936年(昭和11年)
1939年(昭和14年)4月1日 - 添上郡東市村の一部(大字白毫寺)を編入。
1940年(昭和15年)11月3日 - 生駒郡都跡村を編入。
1945年(昭和20年)- 奈良空襲。
昭和(戦後)
1951年(昭和26年)3月15日 - 添上郡大安寺村・東市村・生駒郡平城村を編入。
1955年(昭和30年)3月15日 この当たりから青山住宅地や学園前住宅
1957年(昭和32年)9月1日 - 添上郡田原村・柳生村・大柳生村・東里村・狭川村を編入。「奈良市民の歌」を制定。
1977年(昭和52年)2月10日 - 市旗を制定[10]。
現代
平成
2002年(平成14年)4月1日 - 中核市に指定。
2005年(平成17年)4月1日 - 山辺郡都祁村・添上郡月ヶ瀬村を編入。