奇皇后
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奇氏がバヤン・クトゥク皇后の死後、その宮室に行ってみると、慎ましく暮らしていた前皇后の衣服は破れを繕ったようなものばかりで、奇氏は「正皇后がこんな服ばかり着ていたのか」と大笑いしたという[3]。次皇后とはいえ、皇太子生母として相当な権勢を振るっていたとみなければならない。
北元

至正28年(1368年)、朱元璋軍が大都郊外の通州に迫ると、順帝は奇皇后や皇太子を引き連れて大都を去り、元朝の中国支配はあっけなく終わりを告げる。順帝は内モンゴル応昌に逃れて再起を期していたが、至正30年(1370年)にこの地で没し、皇太子のアユルシリダラが後を継いだ。これが北元の昭宗である。奇后は北元の皇太后になったことになる。遼東方面には20万の大軍を擁する元太尉ナガチュの勢力が残存しており、北元は高麗にも圧力を加えた。

やがて北元の昭宗アユルシリダラは明軍に追われてカラコルムに逃れ、宣光8年(1378年)にこの地で没した。その後を継いだのは昭宗の異母弟とも言われるトグス・テムル(北元の天元帝)である。北元が頼みにしていた満州に勢力を有する大尉ナガチュが1387年、明の圧力に抗しきれず投降すると、北元の命運は尽きる。洪武21年(1388年)、根拠地であるブイル湖一帯を明軍に襲撃されたトグス・テムルは逃亡する途中、アリクブカの後裔イェスデルに殺害され、北元は滅びた。奇后がいつどこで死去したのかは詳らかではない。
登場作品

辛? 高麗中興の功臣(2005年、演:キム・ヘリ)

奇皇后 ?ふたつの愛 涙の誓い?(2013年、演:ハ・ジウォン

脚注^ 武田幸男編訳『高麗史日本伝(上)』岩波文庫、2005年、109頁、脚注(1)
^ 森平雅彦「元朝ケシク制度と高麗王家 : 高麗・元関係における禿魯花の意義に関連して」『史学雜誌』 110(2)、234-263頁、2001年2月
^ 『元史』巻114 后妃1 伯顔忽都皇后伝「至正二十五年八月崩。年四十二。奇氏后見其所遺衣服弊壊。大笑曰「正宮皇后。何至服此等衣耶」。其樸素可知」

参考文献

「アジア人物史 5」
集英社 2023年

伝記史料

元史』巻114(后妃1)完者忽都皇后伝

外部リンク

高麗女性と蒙古族(中国語)


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