太陽の季節
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伊藤整は、「いやらしいもの、ばかばかしいもの、好きになれないものでありながら、それを読ませる力を持っている人は、後にのびる」と推奨し[4]武田泰淳は、「彼は小説家より大実業家になるかも知れない」と述べている[4]

石川達三は、「欠点は沢山ある。気負ったところ、稚さの剥き出しになったところなど、非難を受けなくてはなるまい」、「倫理性について〈美的節度〉について、問題は残っている。しかし如何にも新人らしい新人である。危険を感じながら、しかし私は推薦していいと思った」とし、「この作者は今後いろいろな駄作を書くかも知れない。私はむしろ大胆に駄作を書くことをすすめたい。傑作を書こうとする意識はこの人の折角の面白い才能を萎縮させるかも知れない」と述べている[5]

舟橋聖一は、「この作品が私をとらえたのは、達者だとか手法が映画的だとかいうことではなくて、一番純粋な〈快楽〉と、素直に真っ正面から取り組んでいる点だった」とし、「彼の描く〈快楽〉は、戦後の〈無頼〉とは、異質のものだ」と評している[5]。また、「佐藤春夫氏の指摘したような、押しつけがましい、これでもか、これでもかの、ハッタリや嫌味があっても、非常に明るくはっきりしているこの小説の目的(#反対派)が、それらの欠陥を補ってあまりあることが、授賞の理由である」と述べている[5]

井上靖は、「その力倆と新鮮なみずみずしさに於て抜群だと思った」とし、「問題になるものを沢山含みながら、やはりその達者さと新鮮さには眼を瞑ることはできないといった作品であった」、「戦後の若い男女の生態を描いた風俗小説ではあるが、ともかく一人の―こんな青年が現代沢山いるに違いない―青年を理窟なしに無造作に投げ出してみせた作品は他にないであろう」と述べている[5]
消極的支持派

瀧井孝作は、「小説の構成組立に、たくみすぎ、ひねりすぎの所もあるが、若々しい情熱には、惹かれるものがあった。これはしかし読後、“わるふざけ”というような、感じのわるいものがあったが、二月号の『文學界』の『奪われぬもの』というスポーツ小説は、少し筆は弱いけれど、まともに描いた小説で、これならまあよかろうと思った」とし、「この作家は未だ若くこれからだが、只、器用と才気にまかせずに、尚勉強してもらいたい、と云いたい」と注文を出している[5]

中村光夫は、「未成品といえば一番ひどい未成品ですが、未完成がそのまま未知の生命力の激しさを感じさせる点で異彩を放っています」と述べつつも、「常識から云えば、この文脈もところどころ怪しい。〈丁度〉を〈調度〉と書くような学生に芥川賞をあたえることは、少なくも考えものでしょう」と誤字を指摘し、「石原氏への授賞に賛成しながら、僕はなにかとりかえしのつかぬむごいことをしてしまったような、うしろめたさを一瞬感じました」、「しかしこういうむごさをそそるものがたしかにこの小説にはあります。おそらくそれが石原氏の才能でしょう」と述べている[5]

川端康成は、「私は『太陽の季節』を推す選者に追随したし、このほかに推したい作品もなかった」とし、「第一に私は石原氏のような思い切り若い才能を推賞することが大好きである」、「極論すれば若気のでたらめとも言えるかもしれない。このほかにもいろいろなんでも出来るというような若さだ。なんでも勝手にすればいいが、なにかは出来る人にはちがいないだろう」と述べている[5]
反対派

吉田健一は、「体格は立派だが頭は痴呆の青年の生態を胸くそが悪くなるほど克明に描写した作品」と酷評し[4]、「ハード・ボイルド小説の下地がこの作品にはある」とした上で、「その方を伸ばして行けば、『オール讀物』新人杯位まで行くことは先づ請け合へると思ふ」と述べている[4]

平野謙は、「私などの老書生にはこういう世界を批評する資格がない」とさじを投げた[4]

丹羽文雄は、「若さと新しさがあるというので、授賞となったが、若さと新しさに安心して、手放しで持ちあげるわけにはいかなかった。才能は十分にあるが、同時に欠点もとり上げなければ、無責任な気がする」とし、「プラス・マイナスで、結局推す気にはなれなかった。私には何となくこの作品の手の内が判るような気がする」と述べている[5]

佐藤春夫は、「反倫理的なのは必ずも排撃はしないが、こういう風俗小説一般を文芸として最も低級なものと見ている上、この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリスト興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった」とし[5]、「これでもかこれでもかと厚かましく押しつけ説き立てる作者の態度を卑しいと思ったものである。そうして僕は芸術にあっては巧拙よりも作品の品格の高下を重大視している。僕にとって何の取柄もない『太陽の季節』を人々が当選させるという多数決に対して、僕にはそれに反対する多くの理由はあってもこれを阻止する権限も能力もない」と投げやりになりながら、「僕はまたしても小谷剛を世に送るのかとその経過を傍観しながらも、これに感心したとあっては恥しいから僕は選者でもこの当選には連帯責任は負わないよと念を押し宣言して置いた」と批判している[5]

宇野浩二は、「読みつづけてゆくうちに、私の気もちは、しだいに、索然として来た、味気なくなって来た」とし、「仮に新奇な作品としても、しいて意地わるく云えば、一種の下らぬ通俗小説であり、又、作者が、あたかも時代に(あるいはジャナリズム)に迎合するように、(中略)〈拳闘〉を取り入れたり、ほしいままな〈〉の遊戯を出来るだけ淫猥に露骨に、(中略)書きあらわしたり、しているからである」と批判している[5]
作品評価・解釈

『太陽の季節』は発表当時、新しい風俗として話題作となり、賛否両論で文壇を賑わせたが[1]、文学的な観点からの本格的な論究はあまり多くはない。この件について、奥野健男は文庫版の解説の中で「既成の文学者たちが、先入観を持ってこの作品を否定的に眺め、まともに取り上げようとしなかったため」と分析している。「新しい風俗」とされたことについても奥野は「このような風俗は昔から避暑地にはざらに転がっていた。ただ世間も作家もそれを知らなかっただけ」としている。

山本健吉は、「スポーツ青年の無道徳な生態」を描いた『太陽の季節』について、以下のように評している[7]。これはたいへん魅力に富んだ小説だが、現代小説の行動性は、このような思考停止の状態においてしか、現われないのであろうか。似たような青年を描いても、三島は彼の抱いている小説美学必然として現われてくるが、この小説では、完全に風俗小説的な場に風化している。そしてそれを、深刻に意味づけようとする作者の試みが、宙に浮いている。 ? 山本健吉「文芸時評」[7]

村松剛は、三島由紀夫の『沈める滝』のドライ青年の主人公・昇が、その3か月後発表の『太陽の季節』の主人公の先駆的存在となっているとし、三島の文体が石原に影響したことを指摘している[8]

『太陽の季節』が発表された時期、三島由紀夫は随筆の中で、学生や学校を卒業したばかりの人の中にもいる「通人」が、その知識を披露する時に能弁になり、無意識に「不自然な老い」を装う傾向となり、かつて自分自身も「学生文学通的文章」を書いていたため、そういった「若い趣味人」の文章に出会うと恥ずかしい思いがあると語り[9]、「学生にふさはしい趣味は、おそらくスポーツだけであらう。そして学生にふさはしい文章は、その清潔さにおいて、アスリート的文章だけであらう。どんなに華美な衣裳をつけてゐても、下には健康が、見え隠れしてゐなくてはならない」と考察しながら、「最近私は、『太陽の季節』といふ学生拳闘選手のことを書いた若い人の小説を読んだ。よしあしは別にして、一等私にとつて残念であつたことは、かうした題材が、本質的にまるで反対の文章、学生文学通の文章で、書かれてゐたことであつた」と評している[9][注釈 1]

また『太陽の季節』発表5年後に三島はこれを本格解説し、あらためて読み返すと、多くのスキャンダルを捲き起した作品にもかかわらず、「純潔少年小説」、「古典的な恋愛小説」としてしか読めないことに驚いたとし、「『太陽の季節』の性的無恥は、別の羞恥心にとつて代られ、その徹底したフランクネスは別の虚栄心にとつて代られ、その悪行は別の正義感にとつて代られ、一つの価値の破壊は別の価値の肯定に終つてゐる。この作品のさういふ逆説的性格が、ほとんど作者の宿命をまで暗示してゐる点に、『太陽の季節』の優れた特徴がある」と評しながら[11]、極度に「〈〉といふ観念」を怖れる竜哉は、「〈愛〉といふ観念」に奉仕するため恋愛をする「ロマンチック文学の恋人たち」とは逆だが、それはオクターヴ(スタンダールの『アルマンス』の主人公)が不能のために「〈愛〉といふ観念」を怖れるのと同様、男女関係の進行過程に、「いやでも〈愛〉が顔を出さなければならぬといふ強迫観念」を読者に与え、それは一般的な恋愛小説の主人公が「〈心ならずも〉愛するにいたるサスペンス」と同じで、『太陽の季節』では、「英子の死」により、「〈愛〉はあからさまにその顔を現はす」と説明し、「ここに小説家の工みがあるけれど、こんな救ひのために、『太陽の季節』は作品として本質的な恐怖をもたらさない」とし、その代りに竜哉の「たえざる恐怖」が深い印象を与えると解説している[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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