出自考証(現在の開城市)一帯の商業勢力だった豪商であり、中国人商人と直接交易をおこない、莫大な富を築いた。従って、唐の皇族だという王帝建の父は、事実は豪商だった一族のもとに商取引のため出入りしていた中国人商人であり、その中国人商人と康辰義の間で王帝建が誕生したと解釈するのが自然であり、王帝建の父が中国人商人であることを『高麗史』や『高麗史節要』では、粛宗だと高めているが、おそらくは高麗側の推量であった可能性があり、いずれにせよ王帝建が康宝育の家に1ヶ月余り滞在した後に去った中国人商人の青年の息子であったことは間違いなく、それは豪商であった一族のもとには、数多くの中国人商人が商売の取引のため出入りしていたこと、また王帝建が16歳の時に、王帝建の父が証拠物として与えた弓と矢を持って、父を探しに商船に乗りこみ唐へ行こうとしたことから、そのように再解釈して大きな合理性の無理がないと述べている[13]。
高雲基(延世大学)は、「作帝建に関連した話である。彼は唐の皇族だという人物が新羅に来て、この地の女、辰義と結婚して生んだ息子である。のちに作帝建は、父を探しに行く途中に西海の龍の娘と結婚し、息子の龍建を生んだのだが、この人物がまさに王建の父である。『龍』が中国系の何らかの象徴として見るなら、王建の家系はほとんど中国系のはずで、曾祖父から調べても王建は間違いなく中国系3世」と述べている[3]。 唐の力を借りて高句麗・百済を滅ぼした新羅も9世紀末になると国力が衰退し、各地で反乱が起こっていた。 北方での新羅への反乱軍の指導者であり後高句麗を建国した泰封王である弓裔(クンイェ)に従い、松嶽城主・鉄原太守を歴任し、西南海域の水軍を統率して活躍していた。後高句麗は、新羅や後百済に対して優勢を占めており、王の弓裔は自らを弥勒菩薩と自称し仏教の神秘性を利用して権威を高めようとした。しかし弓裔が部下に対して傲慢で乱暴になるなど暴君になったため、918年に弓裔の部下である洪儒(ホン・ユ)、「玄慶(ペ・ヒョンギョン)、申崇謙(シン・スンギョム)、卜智謙(ポク・チギョム)らは、弓裔を追放し易姓革命を起こして王位を奪い王建を新たな指導者として擁立した。 919年、王建は松嶽郡に遷都し、郡を開州に昇格させ、高句麗の後継者を自称して国号を高麗と定め、年号を天授と定めた。920年に後百済に圧迫されていた新羅の景明王に信書を送り同盟を結ぶことにした。 926年10月、後百済は新羅の首都である金城(慶州市)を占領し、景哀王は自殺した。後百済は手強く、一進一退の攻防を繰り広げていた。930年から高麗は反撃に転じ、古昌郡において後百済を大敗させた。 934年、後百済は休戦を申し入れ、王建もその気になったが、老将の?黔弼一人が反対した。王建は?黔弼の意見を採用し、後百済軍を打ち破り、熊津(公州市)以北の地を手中に収めた。 935年、後百済で王位継承による内紛が発生し翌936年に初代王である甄萱(キョン・フォン)が高麗に投降した。また935年、新羅最後の王敬順王(金傅)が高麗に帰順した。後百済の内紛に巧みに介入した王建は、936年、遂に朝鮮半島の統一を成し遂げたのである。 統一後は、国内の基盤固めに尽力する。王建は、前王朝の新羅の貴族や豪族の多くを家臣として加えることで国内の混乱を最小限に抑え、それらを府・州・郡・県に分けて地方をそれぞれ治めさせた。中央は三省六官、九寺にして中央集権化を確立した。 対外的には、遼に滅ぼされた渤海の遺民受け入れや植民に尽力し、国内の復興と発展に努めた。また、中国の王朝に対してはこの頃、五代の王朝に相次いで朝貢を行なって冊封されることで友好関係を保った。933年には後唐の正朔を受け、中国の年号を使用し始めた。日本の朝廷に対しても2度にわたって使者を送り、友好と通商を求めたが、これは日本側に拒絶されている。 943年、67歳で死去。死の1ヶ月の前に4月、高麗の後代王たちが必ず守らなければならない教訓として「訓要十条」を作り、側臣だった大匡の官職の朴述熙に伝えた。その内容をまとめると、
王建の台頭
後三国時代
統一
死去
仏教を崇尚し、国家が保護する。
寺院は道先大師の風水地理説によってのみ創建し、乱立しない。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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