太田裕美
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ソロデビューに際しては、音楽プロデューサーの白川隆三が太田のディレクターに就任した[9]。また、CBSソニーで、山口百恵郷ひろみといった主流派アイドルを担当していた稲垣博司や酒井政利の裏で、吉田拓郎山本コータローフォークソング系のミュージシャンを担当していた丸山茂雄が、1974年に太田の宣伝担当に就いた[10][11][12][13]。丸山茂雄はインタビュー中で「太田はアイドルを志望していたが、20歳を過ぎてアイドルとして売り出すのは厳しい状況だった[10][12]。そこで白川ディレクターと相談し、当時シンガーソングライターの小坂明子の『あなた』が大ヒット中だったことから、小坂の後釜として、松本隆筒美京平のコンビで楽曲制作し、ピアノ弾き語りで歌うフォーク調の曲で売り出そうということになった」と語っている[10][12]

そこで丸山は、太田を原宿パブ「ペニーレイン」に連れて行くことに精を出した[10][14]。同店は吉田拓郎が店名をタイトルに入れた曲「ペニーレインでバーボン」で有名になる直前で、仕事上の付き合いがある吉田を始め、多くのフォークシンガーが毎晩飲みに来るため、丸山は彼らに太田を紹介し[10]、親しい間柄になった[10][14][注 3]。太田は雑誌インタビューで「吉田拓郎さんや谷村新司さんと仲がいい」などと話し、フォークファンに太田の名前が浸透した[10]。また、当初から吉田拓郎や井上陽水を意識して、アルバム制作にも力を入れた[10]
「木綿のハンカチーフ」が大ヒット

1974年11月1日に「雨だれ/白い季節」でデビュー。キャッチフレーズは「まごころ弾き語り」。プロダクションレコード会社の本命は春にデビューさせ、年末の賞レースで新人賞を狙うため実績を作るのが通常で[10]、期待が薄いデビューとなったが[10]、前述のプロモーションが功を奏して[10]20万枚のヒットを記録し[10]1975年日本レコード大賞日本歌謡大賞などで新人賞を受賞した。

1975年12月に3作目のアルバム『心が風邪をひいた日』からシングルカットされた「木綿のハンカチーフ」が100万枚を超える大ヒット[10]、翌1976年オリコンチャート週間2位、年間4位を記録した(年間1位は子門真人およげ!たいやきくん』)。作詞松本隆作曲筒美京平。この曲は太田の最大のヒット曲にして代表曲となり、はっぴいえんどから作詞家に転身した松本隆の出世作ともなった[15]

1976年にはNHK紅白歌合戦に初出場[注 4]1980年まで5年連続で出場した。当時はアイドル歌手のような扱いを受け、大学祭などにも多数出演し「学園祭の女王」の異名をとった。

太田は、渡辺プロダクションが若者のニューミュージック指向を高めようと立ち上げた「NON STOPプロジェクト」の一員であった。他のメンバーには山下久美子大沢誉志幸(クラウディ・スカイ)、チャクラ[16]桑江知子大塚博堂大上留利子、ルイス、ララなどがいた。


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