太田裕美
[Wikipedia|▼Menu]

経歴・人物
生い立ち

両親は愛知県名古屋市の出身で[5]、父親はプラスティック関係の工場と寿司店を経営していた[5]。なお、生年月日THE ALFEE桜井賢と同一で、太田とTHE ALFEEは同じ年にレコードデビューしている。

3歳の時に東京都から埼玉県春日部市へ転居[3]。幼少の頃から音楽が大好きで、8歳の夏にピアノを習い始めて同時期に初めて作曲する。小学校時代はコーラス部に入っていた。

1967年4月、上野学園中学校音楽指導科声楽科に入学。中学1年の4月頃に同級生から「太田さんの声って変だよね」と言われて「私の声は個性的」と認識するようになったという。
デビューまで

1969年に中学3年で、友人の代わりにスクールメイツオーディションを受けて合格する。受験理由は、大好きなザ・タイガースジュリー(沢田研二)に会えるかもしれないと思ったため。これにより渡辺プロダクションの東京音楽学院に入ることとなった[6]。同期生には、後にキャンディーズを結成した伊藤蘭田中好子らがいた。

高校3年生だった1972年の11月、NHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』のレギュラー出演グループ「ヤング101」のオーディションを受け、ピアノで「ショパンのワルツ」を弾いて合格する。『ステージ101』には1973年1月から番組終了の1974年3月まで「ヤング101」[7]のメンバーとして出演[注 1]。同期には谷山浩子がいた。「ヤング101」時代の友人[注 2]姓名判断[8]芸名を本名の弘美から「裕美」へと変更した[8]

1973年12月、NETテレビのオーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』に出て優勝。渡辺プロダクションと新人養成契約を結び、西銀座ライブハウス「メイツ」でピアノ弾き語りを始める。

ソロデビューに際しては、音楽プロデューサーの白川隆三が太田のディレクターに就任した[9]。また、CBSソニーで、山口百恵郷ひろみといった主流派アイドルを担当していた稲垣博司や酒井政利の裏で、吉田拓郎山本コータローフォークソング系のミュージシャンを担当していた丸山茂雄が、1974年に太田の宣伝担当に就いた[10][11][12][13]。丸山茂雄はインタビュー中で「太田はアイドルを志望していたが、20歳を過ぎてアイドルとして売り出すのは厳しい状況だった[10][12]。そこで白川ディレクターと相談し、当時シンガーソングライターの小坂明子の『あなた』が大ヒット中だったことから、小坂の後釜として、松本隆筒美京平のコンビで楽曲制作し、ピアノ弾き語りで歌うフォーク調の曲で売り出そうということになった」と語っている[10][12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:134 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef