太政大臣
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「太政大臣」と「前太政大臣」とは、その意味においてほとんど同じものとなったのである。このため、太政大臣の在任期間は1年前後の短期間であることが多い。特に、清華家出身者が太政大臣となる場合、それはしばしば引退の花道を意味した。天正14年(1586年)12月から足かけ12年にわたって在任した豊臣秀吉は、中世・近世では稀有の例外である。このケースでは、太政大臣を頂点とする秀吉独自の武家官位制が構想されていたものと考えられるが、その実態は秀吉の死と豊臣家の滅亡により永遠の謎となった。
国封

太政大臣だけに許された特権として「国封」がある。文字どおり、一国に特定の個人を封じてその国の公(公爵)とする礼遇である。天平宝字4年(760年)12月、すでに養老4年(720年)の死に際して太政大臣を追贈されていた藤原不比等近江国に封じ、淡海公の爵号と文忠公の諡号を贈ったのがその最初の例である。ついで、藤原良房が貞観14年(872年)9月に美濃国に封じられ、美濃公の爵号と忠仁公の諡号を贈られた。その後、長元2年(1029年)10月の藤原公季の例まで、10件の事例がある。いずれも死後の追贈であること、生前に出家していた者には与えられないこと、いずれも遺族は追贈後ただちに辞退しており、その国の実際の統治権や税収の付与をともなうものではないこと、などの共通点がある。公季のあと、国封の事例は絶えた。
天皇元服と太政大臣

天皇が在位中に元服の儀式を執り行ったのは、貞観6年(864年)1月の清和天皇元服が最初である。これ以前には、在位中に元服を行う必要があるほどの幼年での天皇即位はありえなかったので、当然のことではある。このときに創案された一連の儀式は、その後の天皇元服の規範として定着してゆくことになる。

清和天皇の元服に際して加冠の役を務めたのは、ときの太政大臣藤原良房であった。これに続く天皇元服である陽成天皇の元服では、やはり太政大臣の藤原基経が加冠を務めている。3番目の例である朱雀天皇の元服では、太政大臣藤原忠平が加冠を務めた。

これらの例は「一人の師範」という太政大臣の職掌からすれば当然のことと言える。また、摂政という任務からも説明することができる。いずれにしても、天皇元服に際しては、太政大臣が加冠を務めることが先例として定着した。しかも、摂政であってかつ太政大臣である者が務めなければならない、と観念されていた。基経と忠平は実際に摂政太政大臣の立場にあったし、良房も、清和天皇践祚と同時に摂政に任じられたものという認識が後世定着していたからである。

この観念が定着する一方で、太政大臣の名誉職化が進行すると、逆に、摂政の職にある者が、天皇元服の加冠を務めるためにわざわざ太政大臣に就任する、という一見奇妙な現象が常態化した。摂政と太政大臣の分離の先駆けである藤原兼家も、永祚2年(990年)1月の一条天皇の元服に備えて、永祚元年(989年)12月に太政大臣に就任し、翌年5月には早くも辞任している。天皇元服の加冠を摂政太政大臣が務め、加冠の任を終えると短期間で太政大臣を辞任する慣行は、その後、慶応3年(1867年)12月の王政復古により人臣摂政が廃止されるまで続いた。唯一の例外は、寛仁2年(1018年)1月の後一条天皇の元服に加冠を務めた藤原道長である。このとき道長は、すでに子息の頼通摂政を譲っており、前摂政の立場にあったが、寛仁元年(1017年)12月に太政大臣となり、加冠を務めた。このケースでは、現職の摂政であることよりも天皇の外祖父であることが優先され、摂政である頼通自身が前摂政である父親の後見を受けている以上、問題とはされなかったとみられる。

江戸時代には、天皇の譲位や摂関の任免にも事前に幕府の許可を必要とする慣行が成立し、太政大臣の任免も同様に幕府の許可を必要とされていた。摂関家すら任官は難しくなり、清華家は任官を希望することすら不相応と認識されるようになった。清華家から唯一任官の申請が出された西園寺致季の例では、幕府に諮ることもなく、朝廷において直ちに却下されている。こうした事情からか、本来は東宮傅が行うべき東宮(儲君)の加冠を太政大臣が行う、すなわち摂関もしくはその前任者が東宮の加冠を理由として太政大臣に任命される事例も発生している[2]。なお、幕末には再び東宮傅による加冠が復活している。
武家官位としての太政大臣

江戸幕府が元和元年(1615年)7月に公布した「禁中並公家諸法度」では「武家の官位は、公家当官の外たるべきこと」と規定されている。これ以降、将軍をはじめ、武士が叙任される官位位階官職)は、朝廷の管理・統制を離れて、独自の身分秩序制度として幕府に一元管理されることとなった。この制度の下では、武士で大臣になれるのは将軍ただひとりであり、それもおおむね右大臣までにとどまった。太政大臣まで昇進したのは、徳川家康徳川秀忠徳川家斉の3名のみである。家斉の場合は、将軍として空前絶後の在職40年を期しての特例であった。また、徳川家光は、左大臣まで昇進したあと、朝廷から太政大臣就任を打診されたが辞退している。

一方で、朝廷においては家康・秀忠の任官を実質の伴うもの(すなわち公家官位)と認識していたらしく、江戸時代の公家で最初に太政大臣に任じられた近衛基煕も太政大臣に任じられるのは名誉ではあるが、太政大臣は武家(徳川将軍家)の官位で摂関家や清華家が任じられた例はないこと、天皇の元服のように太政大臣を必要とする場合でも徳川将軍の上洛を仰いで太政大臣に任命をした上で加冠を行うべきではないか、という疑念も示している(『基煕公記』宝永6年9月8日条)[2]。その後、徳川家斉が太政大臣になっているが、やはりその在任中に公家から太政大臣の任命はなく、他の武家官位とは一線を画した扱いを受けている。


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