太政大臣
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また、摂関の職が道長とその子息頼通の子孫(御堂流)に定着し、ときの天皇との外戚関係に左右されずに世襲されるようになると、摂関家に代わって皇后を輩出した家系から、かつての良房や基経のように、外戚関係を足がかりにして太政大臣に任じられる者も現れる。その最初の例は、保安3年(1122年)12月に太政大臣となった源雅実である。雅実は、白河天皇皇后藤原賢子藤原師実の養女)の弟であった。これ以降、これまでどおり摂関あるいはその経験者が太政大臣となる例と並行して、雅実が属する村上源氏のほか、公季の子孫である閑院流、やはり摂関家の庶流である花山院家中御門流大炊御門家へと次第に太政大臣就任者は拡大してゆく。「摂関にはなれないが太政大臣にはなれる家格」としての清華家が成立してくることになる。逆に、摂関家・清華家出身でない者が太政大臣に任命されることは、その家が清華家の家格へと上昇したことを意味した。平清盛足利義満の例がこのケースである。

太政大臣が名誉職であることを前提に、太政大臣は「その職を務めて権限を行使すること」よりも「その職に任命されること自体に意味があるもの」となってゆく。「太政大臣」と「前太政大臣」とは、その意味においてほとんど同じものとなったのである。このため、太政大臣の在任期間は1年前後の短期間であることが多い。特に、清華家出身者が太政大臣となる場合、それはしばしば引退の花道を意味した。天正14年(1586年)12月から足かけ12年にわたって在任した豊臣秀吉は、中世・近世では稀有の例外である。このケースでは、太政大臣を頂点とする秀吉独自の武家官位制が構想されていたものと考えられるが、その実態は秀吉の死と豊臣家の滅亡により永遠の謎となった。
国封

太政大臣だけに許された特権として「国封」がある。文字どおり、一国に特定の個人を封じてその国の公(公爵)とする礼遇である。天平宝字4年(760年)12月、すでに養老4年(720年)の死に際して太政大臣を追贈されていた藤原不比等近江国に封じ、淡海公の爵号と文忠公の諡号を贈ったのがその最初の例である。ついで、藤原良房が貞観14年(872年)9月に美濃国に封じられ、美濃公の爵号と忠仁公の諡号を贈られた。その後、長元2年(1029年)10月の藤原公季の例まで、10件の事例がある。いずれも死後の追贈であること、生前に出家していた者には与えられないこと、いずれも遺族は追贈後ただちに辞退しており、その国の実際の統治権や税収の付与をともなうものではないこと、などの共通点がある。公季のあと、国封の事例は絶えた。
天皇元服と太政大臣

天皇が在位中に元服の儀式を執り行ったのは、貞観6年(864年)1月の清和天皇元服が最初である。これ以前には、在位中に元服を行う必要があるほどの幼年での天皇即位はありえなかったので、当然のことではある。このときに創案された一連の儀式は、その後の天皇元服の規範として定着してゆくことになる。

清和天皇の元服に際して加冠の役を務めたのは、ときの太政大臣藤原良房であった。これに続く天皇元服である陽成天皇の元服では、やはり太政大臣の藤原基経が加冠を務めている。3番目の例である朱雀天皇の元服では、太政大臣藤原忠平が加冠を務めた。

これらの例は「一人の師範」という太政大臣の職掌からすれば当然のことと言える。また、摂政という任務からも説明することができる。いずれにしても、天皇元服に際しては、太政大臣が加冠を務めることが先例として定着した。しかも、摂政であってかつ太政大臣である者が務めなければならない、と観念されていた。基経と忠平は実際に摂政太政大臣の立場にあったし、良房も、清和天皇践祚と同時に摂政に任じられたものという認識が後世定着していたからである。

この観念が定着する一方で、太政大臣の名誉職化が進行すると、逆に、摂政の職にある者が、天皇元服の加冠を務めるためにわざわざ太政大臣に就任する、という一見奇妙な現象が常態化した。摂政と太政大臣の分離の先駆けである藤原兼家も、永祚2年(990年)1月の一条天皇の元服に備えて、永祚元年(989年)12月に太政大臣に就任し、翌年5月には早くも辞任している。天皇元服の加冠を摂政太政大臣が務め、加冠の任を終えると短期間で太政大臣を辞任する慣行は、その後、慶応3年(1867年)12月の王政復古により人臣摂政が廃止されるまで続いた。唯一の例外は、寛仁2年(1018年)1月の後一条天皇の元服に加冠を務めた藤原道長である。このとき道長は、すでに子息の頼通摂政を譲っており、前摂政の立場にあったが、寛仁元年(1017年)12月に太政大臣となり、加冠を務めた。このケースでは、現職の摂政であることよりも天皇の外祖父であることが優先され、摂政である頼通自身が前摂政である父親の後見を受けている以上、問題とはされなかったとみられる。

江戸時代には、天皇の譲位や摂関の任免にも事前に幕府の許可を必要とする慣行が成立し、太政大臣の任免も同様に幕府の許可を必要とされていた。摂関家すら任官は難しくなり、清華家は任官を希望することすら不相応と認識されるようになった。清華家から唯一任官の申請が出された西園寺致季の例では、幕府に諮ることもなく、朝廷において直ちに却下されている。こうした事情からか、本来は東宮傅が行うべき東宮(儲君)の加冠を太政大臣が行う、すなわち摂関もしくはその前任者が東宮の加冠を理由として太政大臣に任命される事例も発生している[2]。なお、幕末には再び東宮傅による加冠が復活している。
武家官位としての太政大臣

江戸幕府が元和元年(1615年)7月に公布した「禁中並公家諸法度」では「武家の官位は、公家当官の外たるべきこと」と規定されている。


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