太平記
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なお、この脱線の多さの理由については大隅和雄の説の様に『太平記』は軍記物語の体裁を取ってはいるものの実際には往来物として作られた物であり、中世の武士達が百科事典として使うことを主目的に作られたからではないかという見解も存在する[注 5][2]
諸本

『太平記』の本文系統については、戦前に後藤丹治の研究があり、戦後も高橋貞一、鈴木登美恵のほか、昭和後期から平成にかけては長坂成行、小秋元段らが網羅的かつ精力的に研究を続けており、以下それらの成果によって記す。

「構成」にあるように、すべての現存『太平記』本文は巻22に当たるべき記事を欠いており、記事配列の操作をせず巻22をそのまま欠巻とするものを古態本とし、配列を操作して巻22を設けたものを比較的後出本とする。この点については古く『参考太平記』凡例ですでに指摘されている。

戦後紹介されたもので、巻32相当のみの端本(零本)でありかつ『太平記』の名も冠せられていないが、『太平記』の最終記事年代に近い永和年間(1375-1379 おそらく永和2 - 3年)写かとされる古写本があり、この本文は現存の諸本とほぼ一致する[注 6]。永和本と称されるものである。

このほか一、二の断簡中の逸文を除くと、まとまった古写本としては次の四系統のものが現存本中、古態本とされる。


神田本

西源院本

南都本

神宮徴古館本

これら四系統の相互の関係はいまだに定説がない。ただし、流布本本文との比較では南都本系統が一番近く、逆に西源院本が一番遠い(独自記事が多い)ことは判明している。

現在では一応神宮徴古館系の本文を古態とするが、これも確定的なものではない。また、古態とされる神田本にもある個所に大量の切り継ぎ(後出と思われる別系統本文の補入)があるほか、すべての古写本が混態本であり、極端にいえば巻ごとに系統が異なるともいえる。ただし、『太平記』の本文異動は特定の巻に集中する傾向がある。

以下、流布本より古いが巻22を編集によって埋めている諸本のうち、代表的なものとしては以下のものが挙げられる。


今川家本

現在近衛家陽明文庫所蔵のため陽明文庫本とも呼ばれる。永正2年(1505年)の現存写本の中では最も古い奥書を持つ。またこの奥書はかなり長大で、それによるとこの写本の伝来には甲斐武田氏との関わりもあるという。『参考太平記』校合対象本である。


天正本

毛利家本

両本とも彰考館蔵。流布本に対し外部資料などで増補したと思われる異文を多く持つ。同じく『参考太平記』校合対象本である。


梵舜本

古写本の中では流布本に最も近似する本文を持つとされる。

なお『参考太平記』の校合対象本とされ、現在所在不明のものとして以下のものがある。


今出川本

「菊亭本」とも呼ばれる。


島津家本

「薩州本」とも呼ばれる。平成に入って本文が発見された。


北条家本

系統などの詳細は不明。


金勝院本


楠木正成の名前

太平記で華々しい活躍を描かれている楠木正成は、その名前を「楠木」表記とされたのは明治時代に入ってから、太政官修史館における決定によって成されたもので、太平記の諸本は、その名前を一貫して「楠正成」と表記している[3]。ただし、『楠木合戦注文』[4]を始めとする一次資料の多くは「楠」ではなく「楠木」としているため、歴史的事実としては楠木で正しいと考えられる。
三国志の利用「日本における三国志の受容と流行」も参照

『太平記』には、正史『三国志』や白話小説三国志演義』の要素を踏まえた記述が散見される。たとえば合戦描写などにおいて、楠木正成と諸葛亮の比較が多いが、これは正成の賢将ぶりを話題の中心に据えるために「偉大なる智将としての諸葛亮」を取り上げることで、主従の繋がりを意識しているという[5][6]。智将としての諸葛亮については、『太平記』巻20の「義貞夢事付孔明事」に「水魚の交わり」や「死せる孔明生ける仲達を走らす」などの説話を踏まえた記述にも見られる[5]。この『太平記』の記述は、三国志やその他の文献にも見られる諸葛亮の事績やエピソードを日本の読者に広める役割を果たしていたと考えられる。

ただし、『太平記』は日本における先行軍記の性質を継承する側面が強いため[注 7]曹操劉備が存命中に五丈原の戦いが起こっているほか、「孔明の出廬」といった場面も潤色されているなど[8]、物語に異質性が際立っている。
各巻の概要

慶長8年古活字本による。

巻西暦内容
11318
後醍醐天皇即位。
1324年討幕計画発覚(正中の変)。
21331再び討幕計画発覚。以後が元弘の乱。 後醍醐天皇は笠置山城へ脱出。
3楠正成赤坂城で挙兵笠置山は落城。後醍醐帝逮捕。赤坂城も落城。
41332後醍醐帝、隠岐へ流罪。
5幕府の執権北条高時は「田楽以外になにもしない」と評される。
6楠正成、赤坂城を再攻略。
7楠正成、改めて千早城で挙兵。後醍醐帝、隠岐を脱出。
81333播磨国の赤松則村が反乱し、京の六波羅軍と戦う。
9足利尊氏、鎌倉から上洛。途中で討幕を決意し、六波羅を攻め落とす。
10新田義貞が上野国で挙兵。鎌倉を攻め、北条高時死。鎌倉幕府滅亡。
11九州の鎮西探題も陥落。 後醍醐帝が帰京。建武の新政
121334公家の政治に武士は不服。護良親王が逮捕され失脚。翌年暗殺。
131335高時の子北条時行が鎌倉を占領。尊氏が東征し鎌倉を奪還(中先代の乱)。
14新田義貞が尊氏追討のため東征(建武の乱はじまる)。尊氏は新田軍と戦いつつ入京。
151336奥州の北畠顕家軍が上洛。尊氏は、新田・北畠・楠連合軍に敗北し、都落ち。
16尊氏は九州を根拠地に、再び上洛。湊川の戦いで楠正成が戦死。
17尊氏入京。北朝の光明天皇が即位。
18後醍醐帝は吉野へ潜幸し、南北朝分裂。
1337新田軍が守る越前の金ヶ崎城が陥落
191338北畠顕家が石津の戦いで戦死。尊氏は征夷大将軍となり、室町幕府はじまる。
20新田義貞、越前国の藤島で、斯波高経と戦い戦死。
211339後醍醐帝崩御。後村上天皇が後継即位。
221342脇屋義助(新田義貞の弟)が、伊予国で病死。
23土岐頼遠が、酒に酔って光厳上皇の牛車に矢を射り、斬首。
241345尊氏、天竜寺を建て、後醍醐帝を供養。
251347楠正成の嫡男楠正行が挙兵。藤井寺住吉で勝利。
261348幕府の執事高師直が、四條畷で楠正行と戦い、正行は戦死。続いて師直は吉野を攻め、後村上帝は逃亡。
271349尊氏の弟足利直義と高師直が不和。直義は出家。その政務を尊氏の嫡子足利義詮が後継。
281350直義が京都を脱出、南朝と結んで高師直に対し挙兵(観応の擾乱)。
291351高師直兄弟は、直義と和睦したが、直義方の上杉能憲に殺される。
30尊氏が南朝と和睦し、4ヶ月間の正平一統。直義攻めのために尊氏は関東へ。
1352直義は鎌倉で急死。尊氏が京不在の間に、北畠顕家の弟北畠顕能と、楠正成の三男楠正儀が、第1回南朝軍入京。
31尊氏は関東で新田軍に勝利(武蔵野合戦)。義詮は京を奪還(八幡の戦い)。
321353楠正儀と直義の元部下山名時氏らが、第2回南朝軍入京。
1355尊氏の庶子足利直冬と山名時氏らが、第3回南朝軍入京(神南の戦い)。
いずれも翌月には義詮・尊氏軍が京を奪回。
331358尊氏、背中の腫れ物により病死。
34足利義詮、足利家第2代将軍になる。仁木義長を引き継いで細川清氏が執事。
351360細川清氏と関東管領畠山国清により、仁木義長が失脚。
361361細川清氏も失脚。仁木義長と細川清氏は南朝へ下る。畠山国清も失脚し伊豆で謀反。
37細川清氏と楠正儀が、第4回南朝軍入京。翌月撤退。
381362細川清氏は、いとこの細川頼之と戦い讃岐で戦死。畠山国清は修善寺城で降伏。


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