太平記_(NHK大河ドラマ)
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鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱期を、室町幕府初代将軍足利尊氏を主人公に描いた物語。原作は1950年代末から執筆された、吉川英治晩年の小説『私本太平記』。吉川作品の大河ドラマ化は、1965年(昭和40年)の『太閤記』、1972年(昭和47年)の『新・平家物語』以来で、通算3度目となる。

主演の真田は、1987年(昭和62年)の『独眼竜政宗』以来4年ぶりの大河ドラマ出演で、2度目の出演にして主役に抜擢された。脚本は池端俊策仲倉重郎(後半の一部)が担当しており、共に大河ドラマ初執筆。また番組の終了後に、各回にちなんだ名所旧跡を紹介するコーナー「太平記のふるさと」が設けられた。このコーナーは翌年以降の大河ドラマでも継承され、「◯◯紀行」(「紀行」コーナー)として定着することになる[注 1][注 2]

原作をもとに、足利尊氏の挙兵から鎌倉幕府滅亡、建武の新政、南北朝動乱を経て尊氏の死までを描く。NHK大河ドラマでは初めて南北朝動乱を本格的に取り上げた作品であるが、全49回のうち中盤の山場となる鎌倉陥落の第22回までが鎌倉時代、南北朝成立の第38回までが建武新政期となる配分で、南北朝時代が描かれたのは最後半の10数回程度であった。

群馬県太田市には武家屋敷のオープンセットが作られ、足利、新田、楠木館のシーンが撮影された。また、栃木県足利市には鎌倉や京都の町並みを再現したオープンセットが作られ、中盤の山場となる第22話「鎌倉炎上」の撮影にも使用された。本作品のために撮影された「火を噴く大道芸人」や「炎上する門」などのシーンは、その後の大河ドラマや『その時歴史が動いた』にも流用されている。足利市伊勢町には観光案内所を兼ねた「太平記館」が放送終了後も残り、撮影で使用された鎧などが展示されている。

本作品の特徴の一つとして、病死する登場人物(足利貞氏、後醍醐天皇、清子、尊氏ら)の最期を直接描くシーンが皆無という点がある。病死の場合、息絶える瞬間を映すことがなく全てナレーションによる説明に留まっている[注 3]。一方、討死、殺害、自害するシーンは数多くあったが、中には、千種忠顕のようにいつの間にか退場し、台詞で戦死したことに触れられるという人物もあった。劇中で「三木一草がことごとく滅んだ」という台詞はあるが、その中の一人、結城親光は名前だけしか登場しない(父親の結城宗広は登場している)。また中先代の乱を引き起こした北条時行も、同様に名前のみで存在が語られるだけである。

大河ドラマに登場する皇族公家の言葉遣いは、1988年の『武田信玄』(信玄の正室三条の方とその侍女八重)以降、部分的・断片的に御所言葉が採用されることがあったが、歴代の大河ドラマの中でも皇族や公家が多く登場する本作品では御所言葉ではなく標準語に近い言葉を話し、物腰や語尾などで武士や庶民との違いを表していた。御所言葉は、1998年の『徳川慶喜』以降大河ドラマに定着した。

『太平記』の大河ドラマ化に関しては、1979年度の大河ドラマ企画時にも候補に挙がったが、当時のドラマ部長に「とんでもない」として却下され、次に候補に挙がった『坂の上の雲』も没となって最終的に鎌倉幕府成立前後を描いた『草燃える』となった過去があり[1]、その後も取り上げようとする風潮が幾度かあったものの、皇室が積極的に関与する時代に加えて尊氏が後醍醐天皇を追ったのち北朝の天皇を打ち立てたこと、また歴史的にも極めて難解な権力闘争が繰り返される時期であるため、南北朝・室町時代の大河ドラマ化はタブー視されてきた[2]。しかし、『独眼竜政宗』からの高視聴率連発の勢いが生み出した「視聴率よりも『やりたい企画』を優先する」機運の高まりにより、前作『翔ぶが如く』に続く「やりたい企画」優先の作品としてドラマ化の運びとなった[3]。ただし、「やりたい企画」実現の代償として南朝方の皇族や武将が祀られている諸神社や神社本庁、保守系政治家などへの根回しを慎重に行わざるを得なかった[4]

平均視聴率は26.0%、最高視聴率は34.6%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)[5][6]


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