太平記
[Wikipedia|▼Menu]
太平記で華々しい活躍を描かれている楠木正成は、その名前を「楠木」表記とされたのは明治時代に入ってから、太政官修史館における決定によって成されたもので、太平記の諸本は、その名前を一貫して「楠正成」と表記している[3]。ただし、『楠木合戦注文』[4]を始めとする一次資料の多くは「楠」ではなく「楠木」としているため、歴史的事実としては楠木で正しいと考えられる。
三国志の利用「日本における三国志の受容と流行」も参照

『太平記』には、正史『三国志』や白話小説三国志演義』の要素を踏まえた記述が散見される。たとえば合戦描写などにおいて、楠木正成と諸葛亮の比較が多いが、これは正成の賢将ぶりを話題の中心に据えるために「偉大なる智将としての諸葛亮」を取り上げることで、主従の繋がりを意識しているという[5][6]。智将としての諸葛亮については、『太平記』巻20の「義貞夢事付孔明事」に「水魚の交わり」や「死せる孔明生ける仲達を走らす」などの説話を踏まえた記述にも見られる[5]。この『太平記』の記述は、三国志やその他の文献にも見られる諸葛亮の事績やエピソードを日本の読者に広める役割を果たしていたと考えられる。

ただし、『太平記』は日本における先行軍記の性質を継承する側面が強いため[注 7]曹操劉備が存命中に五丈原の戦いが起こっているほか、「孔明の出廬」といった場面も潤色されているなど[8]、物語に異質性が際立っている。
各巻の概要

慶長8年古活字本による。

巻西暦内容
11318
後醍醐天皇即位。
1324年討幕計画発覚(正中の変)。
21331再び討幕計画発覚。以後が元弘の乱。 後醍醐天皇は笠置山城へ脱出。
3楠正成赤坂城で挙兵笠置山は落城。後醍醐帝逮捕。赤坂城も落城。
41332後醍醐帝、隠岐へ流罪。
5幕府の執権北条高時は「田楽以外になにもしない」と評される。
6楠正成、赤坂城を再攻略。
7楠正成、改めて千早城で挙兵。後醍醐帝、隠岐を脱出。
81333播磨国の赤松則村が反乱し、京の六波羅軍と戦う。
9足利尊氏、鎌倉から上洛。途中で討幕を決意し、六波羅を攻め落とす。
10新田義貞が上野国で挙兵。鎌倉を攻め、北条高時死。鎌倉幕府滅亡。
11九州の鎮西探題も陥落。 後醍醐帝が帰京。建武の新政
121334公家の政治に武士は不服。護良親王が逮捕され失脚。翌年暗殺。
131335高時の子北条時行が鎌倉を占領。尊氏が東征し鎌倉を奪還(中先代の乱)。
14新田義貞が尊氏追討のため東征(建武の乱はじまる)。尊氏は新田軍と戦いつつ入京。
151336奥州の北畠顕家軍が上洛。尊氏は、新田・北畠・楠連合軍に敗北し、都落ち。
16尊氏は九州を根拠地に、再び上洛。湊川の戦いで楠正成が戦死。
17尊氏入京。北朝の光明天皇が即位。
18後醍醐帝は吉野へ潜幸し、南北朝分裂。
1337新田軍が守る越前の金ヶ崎城が陥落
191338北畠顕家が石津の戦いで戦死。尊氏は征夷大将軍となり、室町幕府はじまる。
20新田義貞、越前国の藤島で、斯波高経と戦い戦死。
211339後醍醐帝崩御。後村上天皇が後継即位。
221342脇屋義助(新田義貞の弟)が、伊予国で病死。
23土岐頼遠が、酒に酔って光厳上皇の牛車に矢を射り、斬首。
241345尊氏、天竜寺を建て、後醍醐帝を供養。
251347楠正成の嫡男楠正行が挙兵。藤井寺住吉で勝利。
261348幕府の執事高師直が、四條畷で楠正行と戦い、正行は戦死。続いて師直は吉野を攻め、後村上帝は逃亡。
271349尊氏の弟足利直義と高師直が不和。直義は出家。その政務を尊氏の嫡子足利義詮が後継。
281350直義が京都を脱出、南朝と結んで高師直に対し挙兵(観応の擾乱)。
291351高師直兄弟は、直義と和睦したが、直義方の上杉能憲に殺される。
30尊氏が南朝と和睦し、4ヶ月間の正平一統。直義攻めのために尊氏は関東へ。
1352直義は鎌倉で急死。尊氏が京不在の間に、北畠顕家の弟北畠顕能と、楠正成の三男楠正儀が、第1回南朝軍入京。
31尊氏は関東で新田軍に勝利(武蔵野合戦)。義詮は京を奪還(八幡の戦い)。
321353楠正儀と直義の元部下山名時氏らが、第2回南朝軍入京。
1355尊氏の庶子足利直冬と山名時氏らが、第3回南朝軍入京(神南の戦い)。
いずれも翌月には義詮・尊氏軍が京を奪回。
331358尊氏、背中の腫れ物により病死。
34足利義詮、足利家第2代将軍になる。仁木義長を引き継いで細川清氏が執事。
351360細川清氏と関東管領畠山国清により、仁木義長が失脚。
361361細川清氏も失脚。仁木義長と細川清氏は南朝へ下る。畠山国清も失脚し伊豆で謀反。
37細川清氏と楠正儀が、第4回南朝軍入京。翌月撤退。
381362細川清氏は、いとこの細川頼之と戦い讃岐で戦死。畠山国清は修善寺城で降伏。
391363周防・長門の大内弘世、山陰の山名時氏、仁木義長らが幕府に従う。
401367足利義詮が病死。細川頼之が管領となり、新将軍足利義満を補佐。

受容の諸相
影響

『太平記』は中世から物語僧の「太平記読み」によって語られ、初等学問におけるテキストの役割や江戸時代には講談で語られる物語の1つとなる。室町時代には『太平記』に影響され、多くの軍記物語が書かれる。赤穂藩浅野家家臣吉良義央を討ち果たす赤穂事件が起ると、竹田出雲らにより太平記の「塩冶判官の物語」に仮託されて「仮名手本忠臣蔵」として書かれるなど、説話、浄瑠璃など、日本の近世文学にも大きな影響を与えた[1]

戦国武将にとっては太平記を兵法書の側面から捉え、さまざまな論評を加えた書も生まれた。その集大成が『太平記評判秘伝理尽鈔』となった。江戸期に至るまでの武士にとって不可欠ともいえる兵法書となった。

16世紀、日本でキリスト教カトリックの布教を行ったイエズス会宣教師たちは、『平家物語』と共に『太平記』を、日本の歴史文化思想日本語などを学ぶための資料・教材として注目した。そのため、イエズス会が活版印刷で刊行したキリシタン版にも、『太平記』は強い影響を与えた。

例えば、日本の歴史や文化、思想、日本語などの学習ための教材として『太平記抜書』が刊行された。しかし、『太平記抜書』では、神仏に関する記述が、キリスト教の唯一神(デウス)にそぐわないとされ、「神仏」は、当時の日本におけるデウスの同義語であった「天道」に置き換えられている。また、日本語の語彙ポルトガル語で説明した辞書である『日葡辞書』でも、語彙の説明の為の例文の多くが『太平記』から引用されている。

南北朝時代は古代史と並び皇室のルーツに関わる時代であり、逆臣尊氏や忠臣正成などのイメージも定着していたこともあり、「太平記」は小説映画TVドラマなどの題材として作品化されることは極めて稀であった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:62 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef