太平洋戦争
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また、フィリピン戦においてアメリカ海軍の将兵だけで4,336名が戦死し、830名が再起不能の重傷を負ったが、この中の大半が特攻による損失であった[233]。特攻に痛撃を浴びせられたアメリカ軍は、アメリカ太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥が、フィリピン戦で特攻により被った損害を見て「特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」と評価したように特攻が大きな脅威になると危惧したり、特攻機による空母部隊の大損害により、第38任務部隊司令ウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督が1944年11月11日に計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれ、ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求した[234]。特攻による大損害は大統領のルーズベルトの耳にまで達し、1945年1月にチャーチルとの会談時に、特攻がアメリカ海軍に多大な人的損失と艦艇への損害をもたらせていることで非常に憂慮していることと、戦争の早期終結は困難になるだろうとの懸念を示した。特定の戦術に対してアメリカ合衆国大統領がここまでの懸念を抱いたとことは極めて異例で、それだけ特攻がアメリカに与えた衝撃は大きかった[235]。この後も特攻は終戦まで連合軍をくるしめることとなっていく[236]
フィリピン失陥「ルソン島の戦い」も参照「マニラの戦い (1945年)」も参照廃墟と化したマニラ市街でアメリカ軍に投降した日本軍負傷兵

1945年1月4日にマッカーサーは800隻の上陸艦隊と支援艦隊を率い、ルソン島のリンガエン湾を目指して進撃を開始したが、日本軍の残存特攻機が迎撃し、護衛空母オマニー・ベイ を撃沈、戦艦ニューメキシコにも特攻機が命中して、ルソン島上陸作戦を観戦するためニューメキシコに乗艦していたイギリス軍ハーバード・ラムズデン(英語版)中将が戦死するなど(ラムズデンは第二次世界大戦でのイギリス軍最高階級の戦死者)、連合軍はルソン島上陸前に大損害を被った[237]。ルソン島に上陸したアメリカ軍に対して、レイテで戦力を消耗した日本軍は平地での決戦をさけて、山岳地帯での遅滞戦術をとることとした。司令官の山下は首都マニラを戦闘に巻き込まないために防衛を諦め、守備隊にも撤退命令を出したが、陸海軍の作戦不統一でそれは履行されず、海軍陸戦隊を中心とする日本軍14,000名がマニラに立て籠もった。マニラ奪還に焦るマッカーサーは、市内への重砲による砲撃を許可し、激しい市街戦の上で日本軍守備隊は全滅し、住宅地の80%、工場の75%、商業施設はほぼ全てが破壊された(マニラの戦い (1945年)[238]。戦闘に巻き込まれたマニラ市民の犠牲は10万人にも上ったが、その中には日本兵による残虐行為の他、アメリカ軍が支援したユサッフェ・ゲリラフクバラハップの犠牲者も含まれていた。武装ゲリラの跳梁に悩む日本軍であったが、ゲリラとその一般市民の区別がつかず、老若男女構わず殺害した(マニラ大虐殺[239]

日本軍はその後も圧倒的な火力のアメリカ軍と、数十万人にも膨れ上がったフィリピン・ゲリラに圧倒されながら絶望的な戦いを続け、ルソン島山中に孤立することとなり、将兵や軍と一緒に山中に逃げ込んだ一般市民に大量の餓死者・病死者を出した。一方でアメリカ軍も、第二次世界大戦の戦いの中では最大級の人的損害となる、戦闘での死傷79,104名、戦病や戦闘外での負傷93,422名[240][241][242]という大きな損失を被った上に、何よりもマッカーサーが軍の一部と認定し多大な武器や物資を援助して、一緒に日本軍と戦ったフィリピン・ゲリラや[243]、ゲリラを支援していたフィリピン国民の損失は甚大であった[244]。しかし、「アメリカ軍17個師団で日本軍23個師団を打ち破り、日本軍の人的損失と比較すると我が方の損害は少なかった」と回顧録で自賛するマッカーサーには、フィリピン人民の被った損失は頭になかった[245]

6月28日にマッカーサーはルソン島での戦闘の終結宣言を行ない、「アメリカ史上もっとも激しく血なまぐさい戦いの一つ(中略)約103,475km2の面積と800万人の人口を擁するルソン島全域はついに解放された」と振り返ったが[246]、結局はその後も日本軍の残存部隊はルソン島の山岳地帯で抵抗を続け、アメリカ陸軍第6軍(英語版)の3個師団は終戦までルソン島に足止めされることとなった[247]。その後、ミンダナオ島の戦いビサヤ諸島の戦いなどでも敗北し南方の要衝であるフィリピン全土を失った日本は、南方資源地帯との海路を断たれて、戦争継続能力が無くなるのも時間の問題となった。
フィリピンゲリラフィリピンゲリラに武器の使用法を指導するアメリカ兵、フィリピンゲリラの多くは実際にはアメリカ軍正規兵扱いであった

フィリピン奪還を目指していたマッカーサーは、この日本軍に対するフィリピン人の反感を巧みに利用し、大量の武器を与えてゲリラとして組織化した。マッカーサーは潜水艦で大量の武器を送り込むと、捕虜収容所から脱走したアメリカ兵にフィリピンゲリラを支援させたが[248]、重火器はないものの自動小銃短機関銃を大量に供給されたゲリラの火器装備は90%を超えており、支配者である日本軍より火力に優れているといった有様だった[249]。アメリカ軍がレイテ島に上陸する前には30万人以上の武装ゲリラが存在して日本軍と戦闘を開始しており、日本軍が掌握できていたのはフィリピンのわずか30%に過ぎなかった。ゲリラといっても、アメリカ軍の指揮・命令を受けていたユサッフェはフィリピン人のアメリカ陸軍正規兵であるフィリピン・スカウト(英語版)と同じ扱いであって、アメリカ本国から階級の昇進や任免まで行われていた[250]


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