太平洋のGメン
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ギャング映画(Gangster film)/フィルム・ノワールは、アメリカ1920年代後半から作られ[9][10][11]戦後ヨーロッパフランスイタリアなどでも作られた[9][12][13]。日本の映画会社もそれを下敷きに古くからギャング映画を作ってきた[9][12][14][15][16]。戦後、日活大映東宝、東映でもその手の映画は作られたが[14][16]、日本の場合は欧米と違い、元々ギャングが存在しないこともあり、主人公はギャングでなく、麻薬取締官などの警察官、或いは私立探偵で、追い詰められる側がギャングの場合が多く、架空性も強くギャングというより〈悪漢団〉と呼んだ方がふさわしい扱いだった[9]

1961年5月3日に、ニュー東映東京で製作された鶴田浩二主演・佐伯清監督・川内康範原作・脚本による『地獄に真紅な花が咲く』が封切られた。岡田茂はこのとき、東映京都撮影所(以下、東映京都)所長であったが、この作品を観てギャング路線を思いついた[17]。岡田はジャン・ギャバンのギャング映画が一番好きだった[18]。この翌月、新東宝から東映に移籍してきた石井輝男監督の『花と嵐とギャング』(東映東京撮影所、以下、東映東京)が封切られ[7][19]、この映画で売り出しに苦労していた高倉健の生き生きした姿を見て[20]、岡田は高倉をアクション映画に導き[20]、自身が敷いた「ギャング路線」に起用し続けた[20][21][22]。また高倉も岡田の指導でギャング映画に取り組んだ[20]。「ギャング路線」も「任侠路線」も鶴田浩二と高倉健の二人を主演スターに仕立て上げようと岡田がプランしたものだった[21][23]。当時の東映は、西の両撮影所所長が企画の最終決定権を持っていた[24]

1961年9月に東映東京所長に転任した岡田茂は、「ゼネラル・プロデューサーたる撮影所長は、スタジオにうずを巻かす中心人物でなくてはならない」をモットー[25]、当たる映画が1本もなかった同撮影所を再建するため[26][27][28][29][30][31]、古手監督を一掃して[32][33]、若手スターや若手監督、脚本家をどんどん起用した[26][28][32][33][34][35][36]。 

ただ現代劇を製作していた東映東京には、絶対的にお客を呼べるスターが当時はいなかったため[4]、鶴田浩二の引き抜きもその一つではあったが、「喜劇路線」なども試行しながら[4]、まず特に売れたスリラーなどの原作を母体にした映画製作をやった[4][21]壷井栄の『草の実』や小坂慶助『二・二六事件 脱出』、『松本清張のスリラー 考える葉』、菊村到の『残酷な月』などを企画したが[4]、作品は評価されるも興行は振るわず。館主にも拒否され、営業部も宣伝も黙って市場に流す状況。つまり対外的にも対内的にも熱が入らず[4]。そこで対内的にまずPRの行き届くものを作ると決めた[4]。石井輝男が東映に移籍して最初に作った『花と嵐とギャング』は実は孤立した映画で、その後は一年近く、東映でギャング映画は作られなかった。一年後に作られた石井監督の1962年3月21日封切り『恋と太陽とギャング』も、東映京都制作による大島渚監督『天草四郎時貞』と併映だったこともあり不入りに終わった[2][37]。当時は日活がギャングを含むアクション映画を盛んに作っていたため新味もなかったが[38][39]、岡田は「ウチ独特のアクションものをやろうと考えたとき、日活のマネをしてもダメだ。大人っぽいアクションをやろう、大人っぽいアクションというとギャングだ。東映の現代劇には片岡御大の堂々たるアクションものがあるんだから、これを母体にして、丹波、鶴田、高倉その他のメンバーで、絶対的に面白いアクションもの、ギャングものができるという確信を持ってギャング路線を見出した」と述べている[40]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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