参照 [1][3]
本編
製作:本木荘二郎
脚本:橋本忍
音楽:古関裕而
撮影:山田一夫
美術監督:北猛夫
美術:阿久根巌
録音:宮崎正信
照明:大沼正喜
のちに『ゴジラ』を生み出すことになる本多猪四郎と円谷英二の初コンビ作品である[出典 4][注釈 4]。本多は、本作品でも描いている太平洋戦争開戦当時は中支戦線で従軍しており、山本五十六と近衛文麿が開戦について語る場面では身の引き締まる思いで演出を行ったという[13]。当初、本多は神風特別攻撃隊を題材とすることを検討していたが、プロデューサーの森岩雄が時期尚早と判断し、内容を改めた[12]。
森は、ハリウッドの製作方式を参考に絵コンテを細分化した「ピクトリアル・スケッチ」を導入し、本編と特撮の合理化が図られた[出典 5][注釈 5]。ただし、戦闘シーンは主にアメリカ軍極東航空司令部が提供した映像を含む記録フィルムと[要出典]『ハワイ・マレー沖海戦』、『加藤隼戦闘隊』、『雷撃隊出動』[要出典]などの戦時中の戦争映画からの流用である[4]。そのため、海軍には配備されていない一式戦闘機が多く登場するほか、スーパーマリン スピットファイアなどのイギリス軍戦闘機がミッドウェー島に存在する。
漁船を改造した航空母艦「赤城」および「飛龍」の13メートル大の巨大ミニチュアや実物大セットなどが組まれた[出典 6]。ミニチュアの設計・制作は、本作品で東宝特撮に初参加した美術助手の入江義夫が手掛けた[19]。このミニチュアの撮影は、勝浦および多摩川で行われた[8]。撮影を担当した有川貞昌は、ミニチュアの船内に乗り込み小さな穴からレンズを出して水雷による水柱を撮影しており、いつ分解してもおかしくないひ弱な船内で板子一枚下は地獄の心持ちであったと述べている[18]。さらに、円谷の発案で沖に出て撮影を行うことになり、美術部の反対を押し切って出た外洋で有川は無事に帰れるか不安に感じていたが、円谷は船上でも一心不乱にコンテ作りを行っていたという[18]。
クライマックスでの一式陸攻がジャングル上空を飛ぶシーンでは、カメラと一式陸攻のミニチュアを固定し、台車の上にセットを作りこれを動かして撮影している[4]。P-38 ライトニングのミニチュアにはUコンが用いられたが、実機の着陸脚が引き込み式であるため車輪を付けられず、発進時は手で投げている[4]。
山本が戦艦長門の甲板上に佇む場面では、スクリーン・プロセスが用いられた[13]。
航空兵役の中島春雄は、本作品で身体に火をつけての日本初のファイヤー・スタントを演じた[出典 7]。中島は、衣裳の中に石綿を入れていたと証言している[出典 7]。中島は、これがきっかけで翌年の映画『ゴジラ』でのゴジラ役に選ばれたとされる[20]。