太宰治
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1928年昭和3年)、5月に同人誌『細胞文芸』[13]を発行すると辻島衆二名義[注釈 1]で当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた『無間奈落』を発表するが、連載は1回で終了。津島家の反対を受けたと推測されている[16][17]。この同人誌の製作にのめり込む反面、授業には殆ど出席せず、成績の悪化により、担当教師からは「正直さに欠ける」「外面上は正直に見える」という評価を受けた[18]。またこの頃、芸者小山初代(1912-1944年)と知り合う。1929年(昭和4年)、弘高で起きた同盟休校事件をモデルに『学生群』を執筆、改造社の懸賞小説に応募するが落選[19]。12月10日深夜にカルモチン自殺を図り、母たねの付き添いで大鰐温泉で1月7日まで静養[注釈 2]した。太宰は自殺未遂の理由を『苦悩の年鑑』の中で「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった」と自分の身分と思想の違いとして書いているが[22]、1月16日から特高によって弘高の左翼学生が相次いで逮捕される事件が起きており、津島家から事前に情報を得た太宰が逮捕を逃れるために自殺未遂をしたのではという見方もある[23]

1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京。当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった[24]。太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった[24]。目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた[24]。しかし友人の大高勝次郎などには、仏文科への志望を「肩書のカッコ良さ」や「高名な研究者の辰野隆がいるから」など、もっともらしい理由をつけて虚勢を張っていたという[25]

講義についていけず、美学科、美術史科への転科を検討している[26]。小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。10月、小山初代が太宰の手引きで置屋を出て上京。津島家は芸者との結婚に強く反対。11月に長兄の文治が上京して説得するが、太宰は初代と結婚すると主張。文治は津島家との分家除籍を条件に結婚を認める。大学を卒業するまで毎月120円の仕送りも約束するが、財産分与を期待していた太宰は落胆する[27]。除籍になった10日後の11月28日、銀座バー「ホリウッド」の女給で18歳の田部シメ子鎌倉腰越の海にてカルモチン自殺を図る。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。この事件について太宰は『東京八景』『人間失格』などで入水自殺と書いているが、当時の新聞記事では催眠剤を飲み海岸で倒れているところを発見されたと報道されている[28]自殺幇助罪に問われるが、文治らの働きかけで起訴猶予処分となる[29][注釈 3]。南津軽郡の碇ヶ関温泉郷の柴田旅館で、初代と仮祝言をあげる[31]が、入籍はしなかった[32]。年明け、太宰は文治と覚書を交わし、問題行動を起こさず、大学卒業を約束する代わりに毎月120円の仕送りを受けることになった。2月、初代が上京し、新婚生活が始まる[33]

1932年(昭和7年)、小説家になる決意で『思ひ出』『魚服記』を執筆。文治の助力で左翼活動から離脱(「#左翼活動」参照)。仕送りは120円から90円に減額された[34]
創作、乱れた私生活インバネスコート姿の太宰治

1933年(昭和8年)、『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を太宰治の筆名で発表。同人誌『海豹』に参加、創刊号に『魚服記』を掲載。檀一雄と知り合う。同人誌『青い花』を創刊、『ロマネスク』を発表するが、中原中也らと争い1号で休刊となった[35]

1935年(昭和10年)、『逆行』を『文藝』2月号に発表。大学5年目になっていた太宰は、卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。


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