1419年6月に朝鮮から信頼を得ていた対馬島主宗貞茂死去の報が伝わると、朝鮮王朝内に倭寇の懸念が生じた。朝鮮軍が対馬国に攻め込んだのは、この太宗の命令によるものである(応永の外寇)。約10日間に渡る対馬島攻撃で大小129艘の船強奪、1939戸の家を焼き、104人殺害し、多くの日本人を捕虜にするなどした。同年11月、室町幕府は、蒙古・高麗連合軍が対馬島に来襲したとの情報の真偽確認の使節を送ったが、関係は改善しなかった。朝鮮との通交関係の回復は太宗が没して、世宗が政治の実権を掌握した1423年(応永30)になされた[4]。
死没
1422年5月、寿康宮にて病で薨去した。享年55歳。太宗は薨去する際、当時大旱魃が発生しており民たちの苦痛がひどくなることを心配して「余が死んで鬼になれば神々に私の民たちを助けてくれと頼もう」という遺言を残した。そして太宗が薨去すると直ちに空から雨が降った。その後、太宗の命日である5月10日がくるたびに雨が降り出すので、人々はこの雨を「太宗雨」と呼んだ。
御陵は献陵
である。