一方、南宋の儒学者朱熹は『唐総論』で下記の様に大宗を批判をしている。
「劉邦は私欲が少なかったが、太宗の行動の一切は、仁義の仮面を被って私欲をやっただけだ。劉邦は正当に天下を獲得し、経緯もおかしなところはないが、それに比べると太宗は天下の取り方もおかしなところが多かった。もっとも隋末は反乱が多く、それを平定しなければいけなかったので、一人のくだらない悪漢(独夫すなわち殷の紂王)を倒せば済んだ殷周革命のような訳にはいかなかったことは理解できる。しかし、隋の恭帝を擁立したりしたのはどうにも弁護のしようがない。あれは必要があったのか?そういうことから見れば、劉邦の天下取りに太宗は及ばないという評価しかできない。また、太宗は親の高祖にむりやり隋の晋陽の宮女を侍らせ、無理やり挙兵させようとしたが、あの行為には君臣・父子・夫婦の義というものがない」[9]
「玄武門の変は止むに止まれぬ行為ではなかった。周公旦が殷周革命の後で反乱を起こそうとした管の叔鮮・蔡の叔度を止むに止まれず討ち果たしたのとは、比べ物にならない。太宗には周公旦のような良い心がない」[10][11]
このような太宗の言動に対する批判的な評価や懐疑的な考察は現在の歴史学者の間でも存在しており、布目潮?は『つくられた暴君と明君・隋の煬帝と唐の太宗』において、前述のように「貞観の治」には後世の誇張が含まれていると考え、煬帝は大宗によって意図的に過少評価されており、太宗は過大評価をされていると論じている。[12]
人物・逸話「初唐の三大家」および「蘭亭序」も参照
太宗は能筆家としても知られ、作品としては「温泉銘」がある。臣下にも初唐の楷書を完成させた書の大家を登用するなど、書に対する関心が強かった。また、書聖と謳われる王羲之の真筆に対して、異常なまでの執心ぶりを見せていたことも有名である。王羲之の子孫にあたり、会稽にいた智永という僧が持っており、智永の没後は弁才禅師に所有が移っていた蘭亭序の真筆を手に入れたいがあまりに三度に渡って譲渡を懇願したが聞き入れてもらえなかったので使者を遣わし、蘭亭序にけちをつけてだまし取ったほどである。こうして手に入れた蘭亭序を自身の死後に昭陵に納めさせたと伝えられている[13]。
李勣がかつて病気になった時、「髭の灰が良く効く。」と聞いた太宗は、自らの髭を切って煎じて薬を調合した。李勣は、出血するほど頓首して泣いて感謝したが、太宗は言った。
「社稷の為にしたのだ。卿の為にしたのではない。何でそこまで感謝するのか!」
李勣が宴会に参加していた時、太宗はくつろいだ様子で言った。
「朕は、群臣の中に我が子を託せる者を探したが、公以上の者はいない。公はかつて李密に背かなかった。どうして朕へ背こうか!」 李勣は泣きじゃくって辞謝し、指を囓って出した血を酒へ入れての飲み、酔いつぶれた。太宗は御服を脱いで、李勣に掛けてあげた。
高句麗征伐において右衛大将軍の李思摩が矢に当たって負傷した時、太宗は自らその血を吸いだして治療した。将士はこれを聞き、感動しない者はなかった。
太宗には六匹の名馬があった。その馬たちの名前は「白蹄烏」・「拳毛?」・「颯露紫」・「特勤驃」・「青騅」・「什伐赤」という。
貞観政要によれば蝗害の時太宗自らバッタを飲みこんで蝗害を抑えたという伝説が書かれている。 李世民が秦王となったとき、文学館を建て、賢才を招聘した。杜如晦・房玄齢・于志寧・蘇世長・姚思廉・薛収・?亮・陸徳明・孔穎達・李玄道・李守素・虞世南・蔡允恭・顔相時・許敬宗・薛元敬・蓋文達・蘇勗の18人を学士とした。俗に秦王府十八学士とも言われている。 643年(貞観17年)、太宗は自らと共に中国統一に功績のあった功臣24名を偲んで、凌煙閣という建物に功臣たちの絵を画家である閻立本に描かせた。名を挙げた順については、当時の功臣の序列を反映したものとなっている。俗に凌煙閣二十四功臣とも言われている。 二十四功臣長孫無忌・李孝恭・杜如晦・魏徴・房玄齢・高士廉・尉遅恭・李靖・蕭?・段志玄・劉弘基・屈突通・殷?・柴紹・長孫順徳・張亮・侯君集・張公謹・程知節・虞世南・劉政会・唐倹・李勣・秦瓊
十八学士
二十四功臣
宗室
正室:長孫皇后(文徳皇后)- 鮮卑拓跋部に出自に持つ、長孫無忌の妹[14]
長男:廃太子 李承乾(恒山王)
四男:魏王 李泰(濮王)
九男:高宗 李治(晋王) - 第3代皇帝
五女:長楽公主 李麗質 - 長孫沖(長孫無忌の子)夫人
十六女:城陽公主 - 杜荷(杜如晦の子)夫人、のち薛?夫人
十九女:晋陽公主 李明達
二十一女:新城公主 - 長孫詮夫人、のち韋正矩夫人
側室:貴妃 韋珪
十男:紀王 李慎
十女:臨川公主 李孟姜 - 周道務夫人
側室:楊妃
三男:呉王 李恪(鬱林王)