明治44年(1911年)になって、従三位に追陞されている。 和銅5年(712年)に書かれた『古事記』の序には安万侶が勲五等の勲等を得ていることが記されている(墓誌にも同様の記述がある)。勲等は武官としての功績で得たと考えられることから、安万侶を単なる文官として位置づけることには問題があるとして、以下の考察がある。
勲等を持つことの考察
和銅2年(709年)に行われた蝦夷征討に副将軍格で参加したとの推測。神亀元年(724年)の蝦夷征討で副将軍を務めた大野東人は勲四等の勲等を得て従五位上から従四位下に昇叙されていることも参考になる(黛弘道)[6]。
多氏の一族で安万侶のみ四位に昇っていることに着目し、多氏は五位までの昇進に留まる家柄であったが、安万侶はその戦功によって例外的に四位まで昇った(鷺森浩幸
太安万侶墓太安萬侶墓出土 墓誌・真珠
(国の重要文化財)墓誌は青銅製。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。
1979年(昭和54年)1月23日、奈良県立橿原考古学研究所より、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度39分55.0秒 東経135度54分25.0秒 / 北緯34.665278度 東経135.906944度 / 34.665278; 135.906944)、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土したと発表された。墓誌の銘文は2行41字。左京の四条四坊に居住したこと、位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、養老7年7月6日に歿したことなど記載。墓誌銘全文引用は以下の通り。
左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳
墓は『太安萬侶墓』として1980年(昭和55年)2月19日に国の史跡に指定された[8]。また『太安萬侶墓誌』は、1981年(昭和56年)6月9日に重要文化財(美術工芸品)に指定されている[9]。 注記のないものは『続日本紀』による。
官歴
時期不詳:正六位下
大宝4年(704年) 正月7日:従五位下(越階)
時期不詳:正五位下
和銅4年(711年) 4月7日:正五位上
和銅5年(712年) 正月28日:見勲五等[4]
和銅8年(715年) 正月10日:従四位下
霊亀2年(716年) 9月23日:氏長
時期不詳:民部卿
養老7年(723年) 7月6日:卒去(民部卿従四位下勲五等)[9][10]
明治44年(1911年) 3月13日:贈従三位[11]
脚注[脚注の使い方]^ 『続日本紀』『弘仁私記』『日本紀竟宴和歌』など
^ 國學院大学氏族データーベース「意富臣 ⇒[1]」
^ 谷川健一, 池田末則, 宮田登編『日本庶民生活史料集成 第26巻 神社縁起』(三一書房、1983年)
^ a b 『古事記』序
^ 『弘仁私記』序
^ 黛弘道「太安万侶の墓誌と『続日本紀』」『物部・蘇我氏と古代王権』(吉川弘文館、1995年)
^ 鷺森浩幸「内外階制と貴族」『天皇と貴族の古代政治史』(塙書房、2018年)
^ 太安萬侶墓
^ a b 太安萬侶墓誌/癸亥年七月六日在銘/奈良県奈良市此瀬町出土 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
^ 『続日本紀』では7日とする
^ 〔太安万侶追陞ノ件〕、諸雑公文書(請求番号:本館-4E-018-00・雑02478100)、国立公文書館
参考文献