明代に諸教育機関と教育行政機関は「国子監」という名で一本化され、以後清末までこの名で続いた。 高句麗の時代に「太学」(??
朝鮮半島
中国から百済に移住していた中国系百済人貴族の陳法子の墓誌が中国で出土し、墓誌から百済でも太学が設置されていたことが明らかになっている[5]。太学の長官は「太学正」と称され、中国系百済人貴族の陳春が務めていた[6][5]。
官立高等教育機関として、新羅は「国学」(??)を、高麗は「国子監」(???)を設けた。詳細は「成均館」を参照
高麗王朝末期、「国子監」は「成均館」に改称された。朝鮮王朝でもその名称は引き継がれ、漢城府(現在のソウル市)に置かれた最高教育機関は「成均館」と呼ばれた。
ベトナム)を行ったが、その実施方法は「太学」(Thai h?c)を設立し、太学生(Thai h?c sinh)に試験を受けさせ、これによって進士の資格を取らせるというものであった。
黎利が黎朝皇帝に即位すると(1428年)、首都昇龍(タンロン、現在のハノイ)に「国子監」(Qu?c T? Giam)を置いた。制度は阮朝にも引き継がれ、1803年にフエに国子監(Qu?c T? Giam)が置かれた。阮朝の科挙は1919年を最後として廃止され、国子監も廃止された。
脚注^ a b c d e “太学”. 世界大百科事典 第2版(コトバンク所収). 2016年10月26日閲覧。
^ a b “太学”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク所収). 2016年10月26日閲覧。
^ 古勝隆一『中国中古の学術と社会』法藏館、2021年、49-52頁。
^ a b c ???. “5?16?・??? ??? ???? ???・??”. 国史編纂委員会. ⇒オリジナルの2022年11月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221123050319/http://contents.nahf.or.kr/id/NAHF.edeah.d_0002_0010_0040
^ a b ???. “??? ??? (陳法子 墓誌銘)”. 国史編纂委員会. ⇒オリジナルの2022年11月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221123085400/https://db.history.go.kr/id/gskh_008_0010_0080_0030
^ ??? (2014年). “百濟 遺民 陳法子 墓誌銘 ?究”. PAEKCHE - MOONHWA vol.1, no.50 (????? ???????). オリジナルの2018年6月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180613190131/https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART001857192
注釈^ なお、庶民のための学校は「小学」と総称され、舜は「下庠」を作ったとされる。
^ 《大戴礼記・保傅》:「帝入太學,承師問道」。この「太學」は辟雍を指す。
^ 「国子監」という名称は隋代に始まったが、これは「国子学」が一時期「国子監」と改称したものである。
^ 国子学・太学・四門学・律学・書学・算学。
関連項目
大学寮 - 日本で律令制のもと置かれた機関。
外部リンク
『太学』 - コトバンク