太地における捕鯨の歴史は、1606年(慶長11年)に和田家一族(豪族)の和田頼元が外来の漁師などと共に原始的な捕鯨技術の開発を行い、太地浦を拠点として組織的な捕鯨を行ったのが始まり[20]で、和田一族を中心として5つの刺手組という捕鯨団体のようなものが形成されていた。その後、1675年(延宝3年)に三代目の和田頼治が鯨を網に追い込んでとる網捕法(網掛突捕法)という方法を発明すると、今度は和田一族統制の下太地村一村で大きな鯨方を形成するに至った。捕鯨の成功で、寛文年間(1661年-1672年)に130戸だった太地の世帯数は、5年後の1677年(延宝5年)には257戸、貞享年間(1684年-1687年)には471戸に急増した[3]。最盛期には日雇いを除く常勤の「定抱え」だけで300人-500人もおり[21]、漁期には最大で1,000人にもなる捕鯨従事者を擁し[20]、これが200年近く続いた。太地では親子鯨を捕らないという独特の習慣もあった[22][23]。しかし、幕末になると日本列島近海に到達したアメリカ合衆国の捕鯨船による乱獲が原因で、急速に鯨の数が減少。陸上から鯨を探し出漁範囲も沿岸に限定される網取法は捕獲頭数に限界があった[24]。1878年(明治11年)に悪天候下の捕鯨により百名以上の行方不明者および死者を出す大背美流れが起こったため、この鯨方も崩壊した[4][5]。
太地が再び捕鯨の町となるのは25年ほど経った日露戦争後のことである。近代的な大資本による捕鯨基地として多くの船で賑わい、鯨体の処理場や鯨を缶詰にする工場もでき、太地は再び捕鯨産業が盛んになった。また、南氷洋などの母船式捕鯨の乗組員としても、多くの太地町の出身者が活躍した。小型鯨類のゴンドウクジラなどを対象とし、捕鯨銃を使う沿岸捕鯨も明治時代の末には非常に盛んになった。ゴンドウクジラ漁はテント(天渡)船(動力式の小型キャッチャーボート)動力は小型焼玉エンジン[25]を利用した捕鯨銃や銛による突き取り漁となり、また北日本沖でミンククジラを対象として操業する沿岸捕鯨の拠点でもあった。しかし遠洋捕鯨は、資源の枯渇などから国際捕鯨委員会 (IWC) を中心とした規制が進み、最終的には商業捕鯨モラトリアムにより、資源状態に関わらず全面停止となった。これにより1988年には太地でも、沿岸のミンククジラ漁を含むヒゲクジラ商業捕鯨が中断されるに至った。以後は、捕鯨砲を用いてゴンドウクジラ類やツチクジラを捕獲する小型捕鯨業と、追い込み網漁などの「いるか漁業」だけが行われ、また、追い込み網漁に関しては他地域での衰退もあり、太地は、日本国内で大規模な追い込み網漁が残った唯一の町となった(ここで言う「いるか」はゴンドウクジラやイルカなどの「小型鯨類」を指す)。また、かつては頻繁に行われた小型鯨類の突きん棒漁業も現在はごくわずか行われる[7]。また当地に、日本で最後に残るイルカの追い込み網漁が、他国から動物福祉の観点から非人道的と批判を受けることもあったが[26]、日本国政府はイルカ漁は日本の伝統文化だと説明し、2014年に閣議決定した[27]。『古式捕鯨蒔絵』、太地(鯨の博物館蔵)
政治太地港側から見た太地町役場
行政
町長
太地町長:三軒一高(2004年8月8日就任 5期目)
議会