天皇誕生日は、1948年制定の国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「天皇の誕生日を祝う。」ことを趣旨としている。
昭和23年(1948年)までは、天長節(てんちょうせつ)と呼ばれ、「休日ニ関スル件」(昭和2年勅令第25号)に基づく祝日だった。昭和23年は昭和天皇の誕生日である4月29日の天長節の後、7月20日に祝日法が施行された。
天皇誕生日の日付は、昭和63年(1988年)までは昭和天皇(第124代天皇)の誕生日である4月29日、平成元年(1989年)から平成30年(2018年)までは明仁(第125代天皇・現上皇)の誕生日である12月23日であった。令和元年(2019年)は、天皇誕生日が存在しなかったが、5月1日が天皇の即位の日として祝日とされ、その前後の日も祝日に挟まれて国民の休日となった。
天皇誕生日に際しては以下の行事を行う。
宮中では、祝賀の儀、宴会の儀、茶会の儀、一般参賀が行われる。
伊勢神宮を始め、各地の神道神社では天長祭が行なわれる。
海上自衛隊では、基地・一般港湾等に停泊している自衛艦において満艦飾が行われる。
外務省や在外公館では慣行的に日本の国家の日とされ祝賀行事などを行っているが、いつ頃から開始されたかは不明である[1]。
一方で、皇后誕生日(こうごうたんじょうび)は地久節(ちきゅうせつ)と呼ばれるが(詳細後述)、第二次世界大戦前から祝祭日ではなく、現在も国民の祝日にはなっていない。
ヨーロッパなどでは在位中の君主の実際の誕生日とは別の日を祝日とすることがあるが[注 1]、天皇誕生日の祝日は大正天皇の例を除いて実際の誕生日と同じであり、天皇の即位に合わせて祝日が移動する。 天長節の名は古く、唐は皇帝・玄宗の誕生日を天長節と祝った事に由来する。中国暦開元17年(天平元729年)に「千秋節」と改められたが、19年後の天宝7年(天平勝宝元年748年)に「天長節」と改められた。「天長」は老子の「天長地久」より採られている[2]。 日本では光仁天皇時代の宝亀6年(775年)10月13日(11月10日)に天長節の儀が執り行なわれ、臣下は天皇の好物の酒を献上して宴を賜った。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}是日天長大?群臣献翫好酒食宴畢賜禄有差 (これに先立つ9月11日(10月10日)に十月十三日是朕生日毎至此辰威慶兼集宜令諸寺僧尼毎年是日転経行道海内諸国竝宜断屠内外百官賜?宴一日仍名此日為天長節庶使廻斯功徳虔奉先慈以此慶情普被天下 と勅が下された)、と宝亀10年(779年)の記録にも見られるなど平安時代は既に執り行なわれ、室町時代の記録として『御湯殿上日記』に記述がある。 明治元年8月26日(1868年10月11日)に太政官布告で「.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}九月二十二日ハ聖󠄁上ノ御誕󠄂辰相當ニ付?年此辰ヲ以テ群臣ニ?宴ヲ賜ヒ天長節󠄁御執行相成天下ノ?戮被差停候偏󠄁ニ衆庶ト御慶福󠄁ヲ共ニ被遊󠄁候思召ニ候間於󠄁庶民モ一同嘉節󠄁ヲ奉祝󠄀候樣被仰出候事」と布達され、9月22日(1868年11月6日)に天長節を国家の祝日として祝した。9月22日、明治天皇は東京行幸への最中で、当日の宿所となった近江国土山宿で最初の天長節の祝賀儀式を行った[注 2]。明治2年(1869年)は各国公使を延遼館へ呼び寄せて酒饌を賜い、明治3年(1870年)は諸官員、非職員、華族などが拝賀し、勅任官は禁中で、奏任官以下は各官省で?宴(ほえん)を賜い、諸軍艦で祝砲が撃たれた。天長節の儀礼が整ったのは明治5年(1872年)で、同年の天長節の勅語で茲ニ朕󠄂カ誕󠄂辰ニ方リ群臣ヲ會同シ?宴ヲ張リ舞樂ヲ奏セシム汝群臣朕󠄂カ偕ニ樂シムノ意󠄁ヲ體シ其ノ能ク歡ヲ盡セヨ と宣した。ついで奏任官以上の総代として太政大臣三条実美が、華族総代として従一位中山忠能がそれぞれ奉答した。明治6年(1873年)の太陽暦採用後は11月3日へ変更し、10月14日の太政官布告で国家の祝日と規定された。 後年、即位した天皇の誕生日にあわせて天長節(てんちょうせつ)が定められた。昭和23年(1948年)までは、年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム、休日ニ関スル件など太政官布告や勅令で具体的な日付が規定された。戦前は新年(現在の元日、1月1日)・紀元節(現在の建国記念の日、2月11日)・明治節(現在の文化の日、11月3日)ともに四大節の一つとして、盛大に奉祝された。 7月30日に明治天皇崩御・大正天皇践祚となった明治45年・大正元年(1912年)は、11月3日(明治天皇誕生日)に予定していた天長節を8月31日(大正天皇誕生日)へ変更する、新たな休日法(休日ニ関スル件)の施行が9月4日になり、天長節のない年となった。 大正天皇の誕生日は盛暑期で各種式典の斎行が困難であることから、翌年以降は2か月後の10月31日[注 3] を天長節祝日として本来の誕生日を避けた。休日としても大正2年(1913年)に休日ニ関スル件が改正され、天長節祝日が制定された。
歴史
古代・中世
近代・現代「開化廿四好 天長節之旗」、豊原 国周(明治時代)