天竜川
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慶長11年(1607年)、角倉了以東大寺大仏殿改築に用いる木材の運搬のため、天竜川を浚渫し、信濃国平出(長野県辰野町)から遠江国掛塚(静岡県磐田市)まで通船させて以来、江戸の建築用木材が流域の山林で伐採され、天竜川を使った木材流送流し)により届けられた。

1950年代に入ると天竜川でも電源開発が進み、ダムの建設が進んだことから、1956年前後には木材の輸送は筏流しから陸送に転換された[14]
天竜川の治水開発伊那谷と天竜川上流域

赤石山脈木曽山脈という日本の屋根に挟まれながら流れる天竜川水系は、その急峻な地形ゆえに古来より水害に悩まされた。度々溢れる土砂まじりの濁流から、「暴れ天竜川」の異名をとった[15]。特に伊那谷の出口に当たる天竜峡付近は川幅が急激に狭隘となることから、伊那谷は特に洪水の被害が顕著であった。天竜川最大の洪水1715年の「未(ひつじ)満水」と呼ばれる洪水で、伊那谷はあたかも湖水のようなありさまであったと記録に残されている。これに対し、流域の住民は様々な方法で水害に対処していた。
上流(信濃国)

上流部の信濃においては江戸時代中期の1746年飯田藩主・堀親長は重臣の黒須楠右衛門を普請奉行、中村惣兵衛を作事奉行として現在の下伊那郡高森町の天竜川に堤防を建設。さらに「天竜井」という用水路を開削し灌漑を図ろうとした。この「惣兵衛川除」は1752年に完成し、飯田藩内の水害を軽減した。上流の上伊那郡片桐(現在の中川村片桐)では1772年より「理兵衛堤防」の建設が始まった。これはこの地の名主である松村理兵衛忠欣が天竜川の治水を目的に護岸工事を始めたものである。この事業はやがて高遠藩の事業に昇格、忠欣の跡を継いだ子の常邑、孫の忠良の代にも継続され、松村家3代に亘るこの事業は1808年の完成まで実に58年間、57万6千人の人員を費やし近世天竜川最大の河川工事となった。釜口水門

1832年には美濃高須藩の飛び地である座光寺(現飯田市座光寺)に「石川除」が建設された。利水においては「天竜井」の他1832年に伊東伝兵衛武敬によって天竜川流域一帯に農業用水を供給するため、天竜川各所に固定堰を建設、取水した。これらは「伝兵衛井筋」と呼ばれ、流域の新田開発に大いに役立ったのである。明治時代に入り、天竜川の治水は1885年(明治17年)に従来の囲堤を連結堤防に修築することから始まった。1927年(昭和2年)には引堤や川幅の拡幅は行われたが水害の根本的解決には至らなかった。この後、諏訪湖の洪水調節を図り諏訪盆地を水害から守るため釜口水門が天竜川の流出部に1937年(昭和12年)に建設された。
下流(遠江国)山岳と平野部の境界、秋葉ダム船明ダム天竜二俣駅上空からの天竜川下流域

下流域では天竜川を麁玉河(あらたまがわ)ないし荒玉河と呼んでいた。『続日本紀』において霊亀元年(715年)5月20日に「遠江国地震。山崩れて麁玉河を塞ぎ水これがために流れず、数十日を経て敷地、長下、石田三郡の民家百七十余区を壊没する」と記載されている。さらに、761年天平宝字5年)7月19日条には「遠江国荒玉河の堤決すること三百余丈、単功三十万三千七百余人を役し、糧を充てて修築せしむ。」とあり、761年以前から堤が造成されていたことを示している。平安時代の『日本文徳天皇実録』仁寿3年(853年)条では、「広瀬河」と称されている。度重なる洪水で河道が変化していた事が推測できる。麁玉川は浜松平野の西側(三方原台地側)を流れていた。そして鎌倉時代の頃には東側(磐田原台地側)に本流が移ったと推測されている。西側の河道も残っていて、1572年頃の河道の様子が甲陽軍鑑に記録されている。それには麁玉川ではなく「小天竜」と記載されている。ちなみに、小天竜の河道の名残は現在、馬込川となっている。

元亀天正年間の1573年、当時浜松城主であった徳川家康が遠江を領有していたが、天竜川流域を境にして激しく争っていた武田信玄武田勝頼から本拠地である浜松城三河を防衛するため、また新田開発を実施して収穫高を増やして国力を高める目的で天竜川の整備を始めた。第一次小天竜(現・馬込川)の締め切り。及び右岸堤防、寺谷用水取入口に伴う左岸堤防構築を計画。1588年(天正16年)には「伊奈流」治水事業で名高い伊奈忠次に治水事業を命じる。1590年(天正18年)に家康が豊臣秀吉の命で関東に転封された後も天竜川の治水事業は後任の浜松城主・堀尾吉晴に引き継がれ、翌1591年に一応の治水事業は終了した。

江戸時代における下流域の治水事業では彦助堤の築造が代表的である。一応1573年家康により西側の河道(小天竜)が締め切られたが、天竜川の流れに対して耐えられる工事内容ではなかった。従って、それ以後も大雨の度に小天竜の河道に水が乱入して洪水被害が発生していた。1656年に彦助堤は、小天竜の完全な締め切りを目的に築造された。松野彦助は新原村(現浜名区)の庄屋で大地主であった。しかし、1674年の大洪水で彦助堤は崩壊してしまった。翌年1675年に復旧した。そして1745年に彦助堤が切れた時に発生する被害予測を「天竜川通水工附帳」として、浜松藩および幕府にさしだした。(その後、藩・幕府の対応記録は無い。)

同時期、天竜川の支流である二俣川でも大規模な治水事業が計画された。二俣川は地形の関係で、大雨の時には通常より約10m近く天竜川の水位が上昇する地点で合流している為、被害は甚大であった。そこで、当時の二俣村名主袴田甚右衛門により河道の附替工事を行った。


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