天皇
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江戸時代全期間を通じて尊皇論は存在していたが[13]、特に「江戸時代末に尊王論が盛んとなり、王政復古帝国憲法における天皇制へとつながった」といわれる[7]大日本帝国憲法では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)と規定し[14]、祖宗から受けた大権により「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(第4条)と規定していた[15][18][21]

1936年昭和11年)以前は「皇帝」と「天皇」が併用されていたが、1936年(昭和11年)に「天皇」で統一された[22][23]

日本国憲法においては「日本国および日本国民統合の象徴」と規定された。天皇は憲法が限定的に列挙している国事に関する行為(国事行為)のみを行い、国政に関する権能はない(第4条第6条 - 第7条[24][25]

帝国憲法には天皇を元首とする明記があったが、日本国憲法に元首の規定はないため日本の元首について様々な見解がある[26]。象徴天皇を元首とする説、実質的機能を重視し内閣(または内閣総理大臣)を元首とする説、元首は不在とする説等がある[27][28][29]内閣法制局は「日本国憲法においては天皇を元首であるといっても差し支えない」「天皇は限定された意味で、国家元首である」とする一方、最終的には定義によるとしている[30][31]。「日本の元首」も参照「象徴天皇制#「君主」に関する議論」も参照
祭祀王として

天皇は古来より統治権と祭祀権を表裏一体に有し、時代の変遷の中で幕府等に統治権の一部が移ることはあったが祭祀の根本が揺らぐことはなかった[32]。天皇は古代以来の日本人の共同体の中心である「祭り主」でもある[33]。現行の日本国憲法下においても天皇の宮中祭祀は国事行為を越えた「天皇の公事」であり、天皇は千年以上前から今に至るまで毎日、国家の安泰、国民の平和を祈っている存在である[32]毎朝御拝/毎朝御代拝)。1990年(平成2年)、紀宮(現黒田清子)は誕生日会見で心に残っている皇后(現上皇后美智子)の言葉として「皇室は祈りでありたい」という言葉を紹介している[34]。また上皇明仁は天皇在位中の平成28年に「国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と天皇の務めは「祈り」であることを自身の退位の際に語っている[35]。「宮中祭祀」も参照
徳治主義.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに誡太子書の原文があります。

古くから儒学を取り入れてきた(「日本書紀」巻10、応神紀十五年秋八月六日条、王仁による論語の伝来)朝廷では古くから徳治主義が天皇の政治の基本方針である。仁徳天皇の有名な「民のかまど」(「日本書紀」巻十一、仁徳紀四年二月六日条)[36]の故事に早くもその影響は見られ、「天の君を立つることは是百姓の為なり」と説く[37]。このような姿勢はその後の歴代天皇にも受け継がれ、醍醐天皇は冬の寒さの厳しい時に民百姓が寒さに震えているだろうと自らも衣脱ぎ捨てたと『大鏡』にあり[38]花園天皇の『誡太子書』には「君主の重責」として「天命の君主を樹立する所以は蒸民のためなり。仁義と政術とをもって凡俗下民を訓導する才徳なくば、君位にあるべからず」と徳治主義と君主の厳しい責任が説かれている[39]。これは先行する宇多天皇の『寛平御遺誡』の仁政思想を継受している可能性があり、「誡太子書」においてはっきりと徳治主義が明示されたのであろう。こうした敬神克己の叡慮が歴代天皇の毎朝の天下泰平の祈りの神事である「毎朝御拝」として具現化されていたのである[40]。また江戸時代の光格天皇も「人君は仁を本といたし候事、、(中略)、、人徳の事を第一とまいらせ候」「何分自身を後にして、天下万民を先とし、仁恵・誠信の心、朝夕昼夜に忘却せざる時は、神も仏も御加護を垂れ給う事、誠に鏡に掛けて影をみるがごとくに候」と書き残し君主は「仁」を第一としなければならない、一身を顧みることなく万民に「仁」を施さなければならいと徳治主義の思想を述べている[41]
神話と伝説

王家の始祖が(神々)や神話と結びつく事例(現人神)は、歴史上、世界各地で多数の事例が存在するが、現存する国連加盟国君主制国家の中では現在、唯一[42]の事例となっている。

神話的には天皇は記紀に伝えられる天照大神神勅により豊葦原千五百秋瑞穂の国の統治を任され、また皇位は皇祖の神裔により万世一系の皇統として天地と共に永遠に伝えられるとされている[43]。戦前にはこれを大日本國體として「大日本帝國は、萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國體である」[44]と説明していた。これをもって日本国の歴史は「永遠の今」の展開であるとされ、日本史の根底には常に永遠の今が流れていると解されるとしていた[45]

古来より明治時代まで天皇は毎食ごとにかたわらに置かれた皿に一品ずつとりわけて、自分が治めるこの国に飢えた民がひとりでもいるのは申し訳ないという気持ちで名もなき民のために捧げるという「さば」という行事を行っていた。この行事は仏教に由来するともされるが、仏教以前の『斎庭稲穂の神勅』の精神に由来する古来からの伝統行事だったという見解もある[46]



天皇制

『岩波 日本史辞典』によると「天皇制」は、日本君主制を指す[47]。「広義には前近代天皇制と象徴天皇制を含め、狭義には明治維新から第二次世界大戦敗戦までの近代天皇を指す」語であり[47]、「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされている[48]。「君主制(王制)」について、『日本大百科全書(ニッポニカ)』は「一般には、世襲の君主が、ある政治共同体において最高権力(主権)をもつ政治形態」としている[49]。歴史的には「天皇制」という言葉はコミンテルン(共産主義インターナショナル)が1932年に出したテーゼ(32年テーゼ)で初めて使用したのが始まりである[50]

「天皇制」という項目を掲載している学術資料は、Kotobankに登録されている辞事典として次がある[51]

デジタル大辞泉


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