天皇制
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左翼については、1930年代に社会主義・共産主義者の講座派が使用した[33]。講座派は、明治維新は不完全なブルジョワ革命であり、現状は半封建的地主制のため、ブルジョワ革命の後に社会主義共産主義革命を目指すとした(二段階革命論)。これに対して労農派は、明治維新はブルジョワ革命で、現状は資本主義帝国主義のため、社会主義・共産主義革命を目指すとした(一段階革命論)。日本共産党は綱領(2020年改訂)で大日本帝国憲法下の天皇制を「国を統治する全権限を天皇が握る専制政治(絶対主義的天皇制)」と記載する[34]

右翼については、昭和初期の歴史家石井孝によれば、日本は明治維新により純粋封建制としての幕藩体制が解体され、絶対主義天皇制政権と国家が成立されたと記した[35]
天皇制ファシズム詳細は「天皇制ファシズム」を参照

大日本帝国憲法下の天皇制をファシズムの一種と見做す観点による用語。
象徴天皇制詳細は「象徴天皇制」を参照

日本国憲法下における象徴としての天皇制を指す用語。
概要

山川出版社「日本史広辞典」による概括は以下の通り。天皇制古代において、宗教的権威を背景に天皇を中心とした律令制国家が形成されたが、武家政治の時代(特に江戸時代)を通じて天皇の政治力は失われた。明治維新を契機にその伝統的権威を背景として、天皇を中心とする近代国民国家の建設が進められた。1889年(明治22年)発布の大日本帝国憲法は、天皇を統治権の総攬者と定め、統治権が憲法の条規により行使されるべきことを規定した。これにより、君主主権立憲主義を併存させた、天皇制国家が確立した。1930年代は、権力機構の一環である軍部が政治的に肥大化したが、1945年(昭和20年)の敗戦により「天皇制権力機構」はおおむね解体された。1947年施行の日本国憲法では天皇の国政[要曖昧さ回避]への権能は否定され、国民主権の下での象徴天皇制が形成された。 ? 山川出版社「日本史広辞典」[3]
歴史
古代

皇室の出自については多くの説が提出されており定まっていないが、記紀によれば初代神武天皇が即位したのは紀元前660年となる。当初の天皇は軍事的及び祭祀的な側面を持っていたと考えられる。

645年大化の改新により、天皇中心の政治が始まり、「天皇」という称号も使用され始めた。7世紀後半から中国の政治体制に倣った律令制の導入が進められ、701年の大宝律令によって律令制が確立した。国号(日本)と元号(大宝)が正式に定められ、歴代天皇に漢風号が一括撰進された。こうして天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われた(古代の国体「建国ノ體」)。710年には平城京に遷都した。

9世紀ごろから貴族層が実質的な政治意思決定権を次第に掌握するようになっていった。10世紀には貴族層の中でも天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏藤原北家)が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立した。

11世紀末になると上皇が実質的な君主(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まった。天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり、実質的君主としての実権を得た。院政を支えたのは中級貴族層であり、藤原氏(摂関家)の地位は相対的に低下した。
中世

鎌倉武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。承久の乱では幕府側が勝利を収めた。だが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇天皇親政を復活させた。建武の新政参照。

室町幕府が成立すると天皇は南朝・北朝に分裂した(南北朝時代)。長い戦乱が続いた末、室町幕府の3代将軍足利義満によって南北朝の合一が果たされた(1392年)。義満は幕府の権力を強化するとともに、「日本国王」として皇帝に朝貢する形式で勘合貿易を行った。義満の死(1394年)に際して朝廷は「鹿苑院太上法皇」の称号を贈った(これらのことなどから、義満が皇位を簒奪する意図を持っていたと考える史家もいる)。

8代将軍足利義政の時代に応仁の乱が起こり、やがて戦国時代に入り、幕府の勢力は衰えた。戦乱の世にあって、天皇・朝廷の勢力も衰えていったが、主に文化伝統の継承者としての役割は存続していた。
近世

織田信長豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治的に利用することによって自らの権威を高めていった。江戸幕府のもとでも天皇の権威は温存されたが、「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とする禁中並公家諸法度が定められ、朝廷の立場は大きく制約されることになった。紫衣事件などにみられるように、年号の勅定などを僅かな例外として政治権力はほとんどなかった。

幕府が学問に儒学朱子学を採用したことから、覇者である徳川家より「みかど」が正当な支配者であるという尊皇論が水戸徳川家(水戸藩)を中心として盛んになった。

江戸時代末になると尊皇攘夷論が興り、天皇は討幕運動の中心にまつりあげられた。尊皇攘夷論は、天皇を中心とした政治体制を築き、対外的に独立を保とうという政治思想となり、幕末の政治状況を大きく揺るがせた。吉田松陰の唱えた一君万民思想は擬似的な平等思想であり、幕府の権威を否定するイデオロギーともなった。しかし、尊皇攘夷派の志士の一部は天皇を「玉」(ぎょく)と呼び、政権を取るために利用する手段だと認識していた。
明治以降

明治新政府は江戸幕府を倒し、奈良時代以来となる太政官制を王政復古で復活させた。なお、真の統治者が将軍ではなく天皇である事を知らしめるため、当時、九州鎮撫総監が“将軍はいろいろ変わったが、天子様は変わらず血統も絶えずに存在する”という趣旨の文書を民衆に配布している。京都府もやはり天皇統治を周知すべく告諭を行なっている。更に新政府は行幸をたびたび行なった[36]

ヨーロッパに対抗する独立国家を創出するため、明治政府による中央集権体制が創られた。明治政府は不平を持つ士族の反乱や自由民権運動への対応の中から、議会制度の必要性を認識していった。日本の近代化のためにも、国民の政治への関与を一定程度認めることは必要であり、近代的な国家体制が模索された。モデルになると考えられたのは、ヨーロッパの立憲君主国で、特にドイツであった。
第二次世界大戦終結後

日本国憲法により、いわゆる象徴天皇制となった。
制度
大日本帝国憲法

大日本帝国憲法プロイセン王国ベルギー王国の憲法を参考に作成されたと言われている。伊藤博文は、ヨーロッパでは議会制度も含む政治体制を支える国民統合の基礎に宗教キリスト教)があることを知り、宗教に替わりうる「機軸」(精神的支柱)として天皇に期待した。
天皇の地位

大日本帝国憲法第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定められており、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されていた。
天皇の大権

大日本帝国憲法においては、天皇は以下のように記されていた。

統治権を総攬する元首である。

陸海軍(=軍隊)を統帥する。

帝国議会の協賛を以って立法権を行使し、帝国議会が議決した法律を裁可若しくは拒否する。


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